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🖊️小林秀雄が横光利一を批評したのを三島由紀夫が観る 昔は新鮮だったのにいつのまにか変わったとかいう古参ファンいるよなア 里見 永井荷風 新感覚派

小林秀雄と三島由紀夫の対談



三島 さっき横光さんの話が出ましたけども、小林さんが、「機械」をお褒めになって、そのあとで、もうダメだ、とおしゃったんで、横光さん、すっかりダメになっちゃったんですってね。
小林 ぼくはダメだなんて言わない。ただね、あたしア横光さんていう、人間が好きだったしね、立派な人なんでね、それが、あんな道をどんどんいくでしょ、あんまりつらい気がして、ついていけなくなっちゃったんだよ。ほんとはああいう才能じゃない才能が、そっちのほうへいっちゃうのが、ぼくはつらくてね、読んで行けなくなっちゃったんだ。それであのへんから読むのやめちゃった。だからあとは知りません。全然。いまだに読まないしね、知らないんです。
三島 才能を思い違いしないで、一つ所をグルグルまわっているのは、気の毒じゃありませんか。
小林 思い違いしないでって?
三島 たとえば、ハッキリ言っちゃえば、里見さんとか、永井荷風さんも、そういう傾向あると思うけど、ある所でキャッチした自分の才能の形を、こっちへいったら自分の才能に適さない、あっちへいったら適さない、だんだん狭くなりましょう?そこだけでオートマチックに動いている一生。
小林 でも、それはオートマチックなことじゃないんじゃない?
三島 ええ、本人はね。
小林 うん。だって、或る型の中でいろいろこまかくなるんだからね。


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文学番長小林秀雄と三島由紀夫の対談。才能に殉死して当たり前と言うのが小林秀雄の考え方でこの力強さは親孝行から来ているのかなんなのか、後輩の三島由紀夫は別のことが言いたいが、そもそもそれが小林秀雄にはなんの事だかわからない。

中村真一郎の文章読本的にテキストクリティックするなら、小林秀雄がいいと言ってた横光利一の才能はこんな感じの文章。

お柳は客の浴室へ来るときは前からいつも、身体いっぱいに豊富な石鹸の泡を塗っていた。マッサージがすむと、主人は客の身体に石鹸を塗り始めた。――間もなく二人の首が、真面目な白い泡の中から浮き上るとお柳はいった。
「今夜はどちら。」
 甲谷は参木と逢わねばならぬことを考えた。
「参木が突堤で待ってるのだが、もう幾時です。」
「そうね、でも、抛ほっといたって、あの方こちらへいらっしゃるに違いないわ。それよりあなた、いつ頃シンガポールへお帰りになるの。」

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それが「機械」でガラリと変わる。

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なにこれ。

横光利一といえば新感覚派だが、方法論もエッセイになっているし今は青空文庫になっていて読みやすい。ありがたいことだ。

即ち新感覚派の感覚的表徴とは、一言で云うと自然の外相を剥奪し、物自体に躍り込む主観の直感的触発物を云う。

例示もあるのでもっとわかりやすい。

未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これらは総て自分は新感覚派に属するものとして認めている。

色々あったが10年後のスタイルは元に戻っている

もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好(かっこう)なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢(しもきたざわ)という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩(も)らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。

機械を絶賛した後に、一本調子で同じ表現を続けるのが嫌になったのか、だんだん元の形式に戻っていったのが嫌だったのかは置いといて、上海は洒脱で読んでみたい気もする。




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