ヤバい。そのとき後光がさした3つの金言
金言は「その時」でないと真価に気づけない
2012年3月末で会社を退職したあと、七転び八起きしながら約10年。
いろいろな方からアドバイスや助言やサポートをいただきました。
今思うと、本当に
至言!ありがたし!!!
というものがたくさんあり、多くの人に救われて今の私はあるんだな、としみじみ思います…
独立だけに限らず、そのあとに新しい事業をはじめたりやめたり、何かしらの役割がかわった場合も然り。
それらの言葉を意識できると、実質的に私たちは救われることや、回避できること、精神的にバランスをとって乗り越えたられることがたくさんあるのだと思います。
ところが、なんでしょうね。
そういう言葉こそ、その時には「へぇ、そんなもんか」と思って軽くとらえていることが多い気がします。
なんなら「私は大丈夫そうだな」的な根拠のないお気楽さ
(efficacyではない)で受け流してみたりします。
実際にピンチに陥った際には、かつて涼しい顔してババンバンだった自分が恨めしく、自分の勘所の悪さに腹が立つかもしれません。
「おいっ、その話、来年のお前のことだよ、アホ!」
と悪態の一つもつきたくなるでしょう。
そして、いよいよその時がきて「あーー、これがあのときの言葉かぁ」ってしみじみ思うものですよね。
ということで。
ご参考までに、かつて私が頂戴し「振り返ってみて有難かった助言=金言」を記述しておこうと思います。
もし「ちょっと気になるぞ」という方がいらしたら、お読みいただくタイミングなのかしれません。
金言1、
独立時に仕事がきても、それ違うからな
まず、これ。
マジで、これ。
ほんまに、これ。
独立した人って、周囲の人は何かと気にかけ、応援してくれることが多い。
同じようなサービスが同じくらいの価格であるなら、他の誰でもなく、独立したてで、直接知っているその人に頼もうと思う人、実際に多いんです。
その理由は3つあると思っています。
1、多くの人は「相手に喜んでほしい」という欲求がある
独立した人=仕事を探している人。
と思うので、じゃあ私はあげましょう!
っていう状態。
なんなら
「私は誰かの未来を応援できる、素敵なオトナです」
的なちょっとした悦に入ることさえありそうです。
ま、実際は、そんな感じで仕事がたくさんきて、独立した人が思いがけず忙しく、思ったほど喜んでもらえなかったり、何なら「ちょっと手いっぱいで」とか断られて、なんだよ…ってがっかりするは、独立したての人へのオファーあるあるですw
2、都合よくやってくれそう…という幻想を抱かれがち
これはたいていは無意識で、根柢には1があると思います。
(つまり悪意はない。ここは大事)
ただ「お仕事ほしいだろうから、まずこちらの指定どおりやってくれるんだろうな」という思惑もけっこうあるように思うのです。
実際はその道で独立した人って、成功体験もこだわりもあると思ったほうがよくて、そんなに都合よくはいかない。
一旦はうまく走り出したように見えても、数ヶ月からせいぜい2年ほどでその仕事は消滅することが多いのではないでしょうか。
3、自分の変化は怖いけど、他人の変化に恩恵を受けたいって思う
これも実は無意識下でけっこうあると思っています。
シンプルに「興味がわく」という感じです。
日常の中で、自分は安全な範囲にいながら、ちょっと冒険感や刺激がほしい、みたいな。
あ、もちろんこのケースも悪意はないと思うのです。
むしろ、相手への好奇心から始まるお仕事やりとりの場合、トラブルや摩擦は比較的少ないような気がしないでもない。
お話を戻すと。
独立時に仕事がきても勘違いするな、という金言は、独立して最初に長期的な仕事をくださった、先輩経営者の方に言われました。
この言葉がなかったら、調子のってとうの昔に廃業していたかも。
独立してすぐにお仕事はくるのはこういった特殊な事情からであることが多いので、どんどん仕事がきたとしても「なんだ、いけるじゃん」って安易に思わない。
あくまでも「実力が試される遡上にのっただけ」なので。
金言2、
魔の3年周期は他人事にあらず
金言1に関連するのですが、最初にきた仕事って、結局
「お前には本当にお金を払う価値があんのか?」
と判断されるための遡上にのっているだけのものが多いなぁと。
さらに実力のお話だけではなく、発注者と受注者、パートナー間の相性もあります。
お互いにいろいろと変化もしていきます。
そうすると、最初にいただいた仕事は自然と精査されていくし、自分の方向性が変わったり狭くなったり広くなったりもする。
相手やお仕事とかみ合わなくなること、ありますよね。
結果、最初にご縁のあった仕事は2年ほどかけて一巡して、3年目でけっこうビジネス状況が変化するぞ!とういうこと。
私自身、独立して1,2年目でいただいたお仕事は「講師業」という大枠以外、何一つ残っていません。
って、何も決めずに会社辞めただけの奴なので、基準にはなりませんが…
業界や業種にもよりますが、いずれにしても、3年ほどでは「ビジネスなんていう水ものは安定しないよ」って意味は同じ。
私は独立して1年経過した頃にいただいた金言ですが、実際に3年目の私を救いました。
2年目のときに意識して多少の仕込みができたから。
いやぁ危なかったですね、今思えば。
深謝 ( 一一)
金言3、
前提のない成功話はマネするな
これは、大したことない割には、飄々と幸せにやってきた5歳児の金言。
そう、私からです!!!
自分で金言とか言うな、5歳児が。
でも、けっこうマジメに大事だと思っていますんですよ。
まあ、本当は私のオリジナルでもなんでもなく、多くの人が知っていることなのでしょう。
私がいただいたアドバイスだけでなく、研修講師としていろいろな方の成功体験、失敗体験を聴いても、やっぱり「前提がない成功話はマネするな」は間違いないなぁと思います。
成功体験は、ほぼほぼ「成功するための前提」がありますよね。
私は人を観察するのが趣味というか癖なので、ある人がそれらしい成功話をしたとき、その人の日常的な振舞いや、置かれている状況から「この人がソレでうまくいったのは、たぶんコレが肝だろうなぁ」といつも成功の構成要素を見ていました。
例えば、
そもそも◇◇があった。
その人は■■が得意だった。
たまたま★★を提供してくれる人がいた。
△△の経験が活かせる環境があった。
など。
もちろん一概には偶然と言えません。
それらを掴む努力はしているはずだから。
でも、同じ努力をすれば成功体験につながるか?と言えばそうではないと思います。
ほかにも個人の深めのパーソナリティなども前提として大きいはず。
たとえば、その人が後生大事だ!と信じて疑わないHave to。
圧倒的なエネルギー源となる Want to。
この2つの要素だけでも、人によるので、前提の違いとしてはもう十分すぎるくらいです。
なので、これら前提をすっ飛ばして
「私はこれで成功したんだから、君もできる!すべし!」
というのは、けっこうよくわからない理論だなぁと。
会社でいまだに見かける日常風景。
口達者なベテランの「自分が若いころは…」論が酒のツマミにもならないうえに、卒倒しそうなくらい退屈なあの事象とほぼ同じです。
(ん?ほんまか?)
ましてや、そこには見逃してはいけない事実が。
まず才能や能力。
例えばなんですけど、SNSで発信しろ!って言われたところで、やったらめったらやればいいわけじゃなくて、そこにはセンスや文章力・表現力が必要だったりします。
才能や能力って簡単に定義できないから、意外に本人が気づいてないこともあります。
努力だけでは埋められない、もしくは埋めるために膨大な時間とエネルギーがかかる、それが才能や能力というもの。
そこをすっ飛ばして「君もできる!すべし!」は事故る可能性さえはらみます。
さらにアクション量。
「君もすべし!」っていう方は、たいていの場合、コツや方法論以上にそこでやりきっている。
だから、すべし!には、言葉にしていない「100本ノックをね」という意味が含まれていたりするわけです。
ところが、人はこれらの圧倒的な部分を見ずに、上澄みの話だけを都合よく解釈して、やればできるもんだと思ってしまう。
自分をメタ認知できない人ほど勘違いしやすい。
Efficacyが低い状態のときほど、上澄み話が金言に思えてしまう。
あのね、それ、勘違いですからっ!
もうね、他の誰でもない、10年前の私の耳をかっぽじって言ってやりたいのですっ!
おい、目覚めろーーー、
お前は色々足りないぞ!涙
というわけで、成功の秘訣は「前提」を含めてマネしたいものだ、ということです。
金言とアホバイスは何が違うのか?
成功体験は人それぞれ。
でも、失敗体験はけっこう共通する要素が多く、そのまま活かせるものが多いなぁと思います。
XXしてはいけない、的な内容です。
金言に対する好みもあれば、自分に必要だったタイミングなどもあるでしょう。
でも頭に残っていて、実際に救いになる金言て、けっこうネガティブな側面へのアプローチも多いように思うのです。
最初にご紹介した2つの金言も、先人(なに過去人にしてんだ、こら!)の失敗体験が元になっています。
となるとですよ。
よくありますよね。
何かをやろうとした際に「やめろ」とか「あんたにはできない」とか「危ない」といって押し止めようとするアホバイス。
それとは何が違うのか?
金言
「やるときは気をつけろよ、むしろ気をつけてやれよ」
アホバイス
「やめろ、するな」
とってもわかりやすい。
少なくとも金言とアホバイスを聞き分けられるくらいの、思考聴覚(ってつかってみた。どやろ)は持ち合わせておけるようMindは整えておきたいものです。
金言、その背景にあるもの
私は、このNote記事を書くにあたって、金言にまつわる自分のアホさを思い知りました。
それは、これら金言の偉大さに気づかなかったことではありません。
こんな金言やアドバイスをくれた人たちの背景にある、人生のおもしろさや愛おしさに気づけていなかったことです。
金言には、金言が生まれる土壌や経緯があって、そこには一言では集約しきれない、喜怒哀楽などの感情を包摂した物語があります。
その物語こそ、私の大好物だったのですw
金言はそれ単体でも価値があるけれど、その人まるごとを知ったうえで味わうと、何倍も私たちの人生を豊かにしてくれるのです。
これからも多くの方から金言をもらいながら、その人の中にある大好物を頂戴します!
と、いうわけで。
引き続きよろしくお願いいたします!!
って、最後なんの話ww
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