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他人にはどうでもいいことでも自分にとっては最高なこと…で、満たす幸福

2022年、賀正


私は、寝ることがすこぶる好きだ。
元旦だった昨日も、6:00過ぎに一度目覚め、オーディオブックを聞きながら二度寝しちゃったら、次目覚めたときには9:30を過ぎていた。

いま使用している敷布団と掛け布団が最強なのだ。
数年前に通販で見つけて即購入した。
自分のセンスと決断と行動を、心の底から褒め讃えたい。

2021年からガラっとビジネスも日常も変わった私。
toCビジネスがシェア半分を占めるようになり、最後は31日までセッションをさせていただいた。

ますますやりたいことを、やりたいときに、やりたいだけ、やらせてもらっていて、本当に仕事と趣味の境界線がよくわからなくなってきた。

布団の件と、仕事の件。

きんと冷えた冬の空気を感じながら目覚めたとき。
ぬくぬくの布団にくるまり、顔だけ新鮮な空気に触れている私が、寝ぼけながら心底思うこと唯一つだ。

今、私はなんと幸福なのだろう。

2022年、元旦。
最高のスタートだった。
(早朝チックに記載しているが、9:30の出来事なところが私っぽい)


一般的って言葉、嫌いじゃなくなってきた


自分でいうのも何だが、一通りのビジネス雑務(雑務ですよ、雑務。大それたことじゃなくて)で、極端にできないことはあまりない。

たいていが、それなりに、できる(という自己認知がある)
もしくはできる感をもってもらえる(人って寛容)
興味ないことは雑で、ミスも多いが(やらかしTeacherって名乗ってます)

そして、世の中そういう人がめちゃくちゃ多いらしい。
全体的なレベル感に差はあるかと思うが、これ!といったことはできないけど、まあ問題ないくらいには色々できる。何とかなる。

これは恐らく
「能力的に一般的である」
ということなのだろう。

この能力的に一般的であることについて、かつては
「やばいぞ、バカだぞ、私なんぞ、何もできないだぞ」
と自分を卑下する素材になっていた。

だが、最近になって、この能力的に一般的であるということが、実はとってもおもしろいことに気づいた。

この一般的で、何の変哲もなくて、どこにでもいそうなそれぞれの人の中に、ものすごい天才性というのか、変態性というのか、そんなものが「漏れなく存在していること」を実感し始めたからだ。

ボスのプログラムは基本20名程度(0期は21名)に限定しているので、参加者さんとは半年間であり得ないくらい深く関わる。

本編(ボスの講義)のあと、次の講義までの1ヶ月間で、90分×15回くらいフォローセッションを用意している。
参加者さんは何回参加しようが自由だ。

その人について、ごっりごりに掘り下げ、向き合い、解いていくのだから、独自の天才性というのか、変態性が見えないわけがない。

最高に興味深く、おもしろいのだ。

へぇ、左様でごぜぇますだ…


ボスのお仕事を手伝うようになって少し経ったとき、ボスに言われた言葉がある。
その言葉は、じわじわと湯たんぽのように私を温め続けている。

「あなたは、繋ぎたい人、なのでしょうね」

この言葉を考え続けて、解像度を上げられるように琴線に触れるものを探し続けて、約1年近くが経った。
そして今こそ、声を大にして言いたい。

へぇ、左様でごぜぇますだ…

これがやりたい…が、
わかっちゃった44歳、冬でごぜぇますだ…

ずっと勘違いしていたのだ。

私は、
自分がフロントに立ち、
自分の言葉で語り、
設定された目的を達成する。
これがやりたいことなのだ、と。

だから企業研修の講師という職業が天職のように思っていたし、努力することは何も苦ではなかった。

でも実際は、徐々にズレが生じてきていた。

私は単に語りたい人なのではなく、
Storyを使って繋ぎたい人、でしかないのだ。

だから、研修をして繋ごうとする先(研修の目的、企業の方針、受講者に求められるものなど)に違和感があったり、不毛さを感じると、もうやりたくなくなってしまっていた。

私は「繋ぎたい」のだ。

本当に必要だと思うものに。
素敵だと思う人に。
経験、知識、組織、環境、文化に。


勝手にやれば、efficacyは自動生成される


へぇ、左様でごぜぇますだ!
ってなると、自分に対する認知が変わっていく。
やりたいことをやるために、どんな能力を使っているのかが、不思議と見えてくるのだ。
そこには必ず、独自の才能が存在しているのだから。

その才能は自分にとって偉大で愛おしいものであるがゆえに、他者との比較や、足りないことの卑下など不要になってくる。

勝手にやる。
勝手にefficacyが上がる。
勝手にSelf-Feedforwardをとる。
そんなサイクルを回し出すのだ。

では、私独自の才能は何か。

それは
「解釈すること」
だった。

事象・物事・結果などに対して、捉え方を広げたり、新しい意味を探したり、意図を深ぼったりする。
これを「解釈する」と言っている。

勝手にやる。
これポイント、評価者は外界に存在しないのだ。

そして、着地点との結節点を創る。
これを「繋ぐ」と言っている。

「繋ぐ」ことをやりたいので、「解釈すること」という才能を活かして、誰に頼まれなくてもゴリゴリ勝手にやる。

こういった独自の欲求を満たすために、私たちは独自の才能を活かしている。
誰もがやっている。
一般的なレベルであるこの私でさえも、日常の中でやっているのだ。

この行為を経て成果や貢献感を得ることができれば、上質な要素で承認欲求が満たされていく。

結果、お気に入りの布団に丸まって実感する、このうえない幸福な朝が待っているのだ。


逆算もあり得るのではないか?


と気づいた。
やりたいことに才能が存在しているのであれば、苦も無くできてしまっていること=才能をもっていること、の先には、自分にとって
「そう、これやりたかったんだよねーー」
が待っていることもあり得るということだ。

このお正月は、わくわくしながら、そこを探っている最中。

でも、ここはとっても注意が必要。

なんせ、本当はやりたくないのに、役割、期待、責任という名のHave toを抱え込んで繰り返しやり続けたことで、能力開発が進み、うまくできるようになっちゃっているものもたくさんあるから。

幸い、私はあまりにもわがままだったので、自分のHave toには敏感であったと思う。

さらにボスのプログラムを体験し続ける中で、自分だけでなく【Have toを抱える人たちの構造】が理解できるようになってしまった。

その数、多様さ、根深さを感じるたびに、やっぱり取り扱いは要注意だな、と肝に銘じるのである。


こういう日々を積み上げていくのだ


お気に入りの布団に丸まって実感する、このうえない幸福な朝。
2022年は毎日この状態へ。

できるか否かではなく、そのために何ができるのか?を考えていく。

ボスのプログラムで、流れを掴むことはできた。

でも、私たちには日々新しいHave toが生まれ、Want toを濁し、才能を陽の当たらない地層へと埋めていく。

だからいつもアンテナを立てておこう。
内省しよう。

2022年、これまでにないほどに自分の状態を掴んで、未来を見据えた元旦。
とても佳きだと思います。

本年もよろしくです。

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