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搾取と供物としての芸術


バレエは神に近い芸術だという人がいる 神に近いかは分からないけど
自分が踊っていて少なくとも これは供物で スピリチュアルまたはオカルト的に見ると 均衡を保つための 事象を献上している 自分の身を使って 
という感じはする しかしそれは いつの世も搾取対象にされる まるでお供え物の饅頭に手を出す手癖の悪い飽食のように。。。


話は変わるが、最近のこの不法移民の問題 全世界的に起きているのを見てると 押し並べて言い分はこう ”そっちがいいと言ったから”
しかしこの場合は不法であるので当然許可も何も無理やり入国してきてるのだが、
ここニューヨークも同様 日本は特に酷い。
現地民もたまに心配して聞いてくる。”日本は大丈夫か?俺らみたいに移民に慣れてないし、恐喝みたいな人間に触れてないからやられ放題。君たちがナイスなのを知ってるからまるで簡単に楽園に辿り着いたようにのぼせ上がってるのだ” と
日本人は勿論だが繊細な文化、行き届いた心遣いに王様扱いされたと勘違いしてしまう外国人が多いだろうことは こちらに居るため想像に容易い。

また少し前、東南アジア系の子達と様々なバイオレンスについての話になった。
というのも、南アジアをはじめ途上国は虐待や家庭内暴力という概念すら未だ確立されていない所が多く、その辺も先進国に遅れをとっている要素なのだと言う。
フィリピン人の同僚からフィリピンは特にまず蟹のメンタリティというのがあると聞いた。バケツに穴を開け、そこに山盛りの蟹を入れると 全員がそこから出ようとして足が絡まり 結局一匹も出られない 要は嫉妬深く足の引っ張り合いをし続ける国民性を表した言葉なのだという。そして結果それがまた全体の貧困を招いているのだと。そこは日本にも無く無い現象だが。

この話を聞いていて私は芥川小説の蜘蛛の糸を思い出した。
盗人のカンダタが小さな蜘蛛を助けた事で地獄に落ちた後 お釈迦様の垂らした蜘蛛の糸で這い上がろうとするが 後から他の罪人が続いてくるのを見て蹴落とそうとし 結局糸が切れて自分も落ちてしまうという話

魅力的な物や人がある時、人はそこに力を感じる。それを手にすれば自分は無敵になれると勘違いさせる。そしてまた枯渇していく。しかしそれは自分を助けているのだろうか? 紛れもなく、自分への不信から来ているのだと思う。
当然それは自分の物では無いので使い方を誤れば自分を殺す毒にもなり得る。そこまで考えていればまず寄ってたかりはしないだろうが。

近年の露呈しつつあるブラック企業の闇や芸能界の不正なタレント搾取、事業形態や一般の親子関係、人間関係など 世のパワーバランスに強く疑問が出てきている事の表れだと思う  与える方と それを使う方。

供物になるという話に戻すと、まず”生贄”というイメージのある人は多いと思う。
でもじゃあここまで話した通り、この人たちはただ喰われて終わってしまうんだろうか?
バレエダンサー やタレント、才能はそのため?
魅力的だから?許してくれるから?誰も辞めないから?
では”持っている”ということは一方的に喰われることが許容されているという事なんだろうか?
私はこの流れや意識が少し変わってきていると感じる

供物とは神への献上、つまり行き先が決まっているという事。
それにより世のバランスを保つ役割をしているのだと思う
しかしそこに知らずに手を出してしまったら?
日本人ならこの辺の理は考えなくとも感覚で答えが出ると思う

勿論今すぐ天罰が下るとかそんな事は無いかも。しかしそれに手を伸ばし食べようとする時の自分の顔付き それを誰も何とも思わないような世になった時

それが自分の世界になって返ってくるのかもしれない

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