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働くってなんだ?

振り返りなので、自分のために記録として書きます。

小学生のよいこのあゆみに、先生に書かれていたことは、「引っ込み思案なので、もっと積極的になりましょう」です。
僕のことです。

そして、実は今でもそうです。

5歳の頃にはまっていたことは、折り紙です。
母親が買ってきてくれた、カブトムシやカマキリなど、精巧につくることができる本でした。
それを夢中でつくっていました。

母親が人形をつくる内職をしていたこともあり、僕はモノづくりが好きな少年でした。

小学1年生の夏休みの工作には、ティッシュの箱と発砲スチロールで作ったロボットをつくりました。
豆電球とタミヤのモーターにプロペラつけて、ギミックにあるロボットです。

僕はロボットカミイという絵本が好きで、それに影響を受けました。
小学校2年生には、ミニ四駆が流行っていました。
ハイパーダッシュモーターが欲しくてたまりませんでした。
アバンテJrが登場したときには、感動したことを覚えています。
すでに、シャーシーに穴が開いているからです。

改造というと、ドライバーをライターの火で温めて、プラスチックを溶かして穴を開けたりしてました。

友達が外で遊んでいるなか、僕は一人部屋にこもり、機械いじりをしていました。近所に置きっぱなしになっている、スクラップになりかけの自動車の中にはいり、スピーカーを頂戴したこともあります。

このころ、宇宙に興味をもち、NASAで働くことが夢でした。

母親は、父親に対して、この子は外で友達とも遊ばずに、大丈夫かなーと心配していたと、成人した後に父親から聞きました。

ちょうどそのころ、マウンテンバイクが流行りました。
欲しくてほしくてたまりません。

僕が乗っていた自転車は、小学1年生の頃に親に買ってもらった、ハンドルにボタンがついていて、押すと、プップーとなり、光るタイプです。

さすがに、小学4年生でこの自転車を乗るのは恥ずかしいです。
なので、ハンドルをまげて、ビニールテープでまいて、改造してました。

ゴールデンウイークやクリスマス、お正月のシーズンのチラシには、マウンテンバイクの特集チラシが多く掲載されていました。僕は欲しいので、チラシを集めていました。

でも、うちはそんなに裕福でないので、お小遣いもなければ、買ってあげることもありません。

子どもながらに、考えました。
どうやって、自転車を買うことができるのか?

最初は、空き缶や瓶ひろいを思いつきました。
よく、おじちゃん、おばちゃんが、大きな袋いっぱいに空き缶を集めているのをみたからです。

少し、調べてみると、袋いっぱい集めても、数円程度にしかならないことがわかりました。

僕が欲しいマウンテンバイクは、最低でも28000円くらいかかります。

たまたま、夜に新聞の集金に来た、おばちゃんと話す機会がありました。
新聞配達を募集しているとのこと。

今の時代は、わかりませんが、僕が子どもの頃は子どもでも新聞配達の仕事をすることが可能でした。

早速、新聞のおばちゃんに、お願いをして、新聞配達をすることになりました。

45件くらい、夕刊を担当することになりました。

僕の同級生は、部活をやったり、遊んだりしていました。
僕は、新聞配達があるので、学校から家に帰ると、ぷっぷ―と鳴る自転車に乗って、新聞配達をしました。

雨の日も、風の日も、台風の日もです。

僕には、今小学校4年生の次男がいますが、あの当時の僕と比較すると、甘やかしすぎだーなと思ってしまいます。

当時の僕の給料は4000円です。
すこしずつ、給与も上げてくれて、7000円くらいになりました。

これをためて、日本製のマウンテンバイクを30000円で買いました。
嬉しくて、家の中に、自転車をおき、WDという油をよくかけて磨いていました。

これが最初に僕が自分の給料で買ったご褒美です。

妹にもお小遣いをあげました。

母親には、ホームベーカリーを買ってあげました。

自分が欲しいものは、自分で買う。

このとき、身に着けました。

なんでもかんでも、親が与えるのは僕はよくないと思っています。
いや、与えてもらえるのはうれしいですし、可能性が広がるとも思います。

でも、僕はこの新聞配達のおかげで、自分で決めたこと、目標としたことをやりぬくといいことがあることを実体験で学びました。

中学生になって、引っ込み思案のままではよくないと思い、サッカー部に入りました。特にサッカーが好きであったわけではありません。
自分自身を変えようと思ったからです。

中学生になったので、夕刊担当から朝刊担当になりました。
これは、とてもしんどかった。

朝5時に起きて、真っ暗闇のなか、1人で新聞配達をするのです。
冬は、なかなか起きられず、朝から新聞配達のおばちゃんに黒い電話に電話がかかってきました。

このころ僕の給料は18000円になっていました。
45000円のマウンテンバイクを買い、熱帯魚にはまっていたので、給料を熱帯魚につぎ込みました(笑)

朝6時には、朝刊の新聞配達を終えて、朝7時に、サッカー部の朝練をする日々を過ごしていました。
授業中は、眠くて眠くて、あんまり勉強できていませんでした。(笑)

新聞配達で、一番やっかいなのは、新聞が余るってことです。
絶対に余るはずはありません。どこかに入れ忘れているのです。

足りなくなったら、2重で入れているため、新聞のおばちゃんにお願いして1部もらって、入れればいいのです。

でも、余ると、入れ忘れているため、1軒1軒、ポストを確認し、入っているか、入っていないかを確認するしかありません。

日曜日は、ゆっくり起きて、7時までに配達したらいいと、新聞のおばちゃんに言われていました。なので、ゆっくり配達していたら、近所の70歳くらいのおじいちゃんが、仁王立ちして、僕のことを待っていました。
「遅い!」
あのおじいちゃんの顔は、今でも覚えています。(笑)

仕事って、誰かのためになることをやるんだなーと。
僕が遅かったら、朝の日課で楽しみにしている新聞を読めない。

このとき、反省しました。

働くって、なんだ?
きっと、誰かのためになることなんだと思います。

高校生は、ミスタードーナツでバイトして、その後、サムズバイザシーというシーフードレストランでバーテンダーしたり、国際通りのライブハウスで喜納昌吉のお店でバイトしたりと、僕の10代までは仕事づくしでした。

なので小学4年生からずっと仕事しています。
成人してからの仕事の話しは、また今度。



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