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佐野元春の仕事への向き合い方に学ぶ

こんにちは。
noteを始めて1か月が経ちました。
当初は特に記事の方向性など何も考えておらず、なんとなく
「仕事の気分転換に好きな音楽のことでも書くかぁ」
くらいの気分で始めたのですが、何本か書いてみると、少し継続して書いてみたいテーマが見えてきました。

前回の記事「【祝!サザン45周年】桑田佳祐の仕事術に学ぶ」の冒頭でも書いたのですが、私は人生のたくさんの局面で、音楽やそれらを創作したアーティストから大きな影響を受けてきました。
現在でもアーティストの生き方や考え方について観察したり考察したりすることで、自分の仕事や生き方のヒントにさせてもらう事が多々あります。

といっても、別に「人生の真実は〇〇だ」とか「仕事とはこうあるべき」というような肩肘張った意味ではありません。
自分はいちファンとして遠くからアーティストたちの活動を追いかけているだけなので、彼らが家族とか同僚のような身近な関係者ではない分、時に意外なほどスッと自分の内面に気づきを与えてくれる事があります。

そこで毎回という訳ではないのですが、今までなんとなく自分の中で考察していた、「アーティストたちから与えてもらった、ちょっとした学びや気づき」をテーマのひとつとして発信していければと思っています。

前置きが長くなりましたが、今回は佐野元春氏から得た気づきをテーマに語ってみたいと思います。

1.自分の居場所は自分で作る


佐野元春氏というと、特に80~90年代の音楽ファンにとっては青春のアンセム「SOMEDAY」を作った人であり、「VISITORS」や「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」などの作品において、日本語とロックの革新的な融合を試みたイノベーターのイメージが強いと思います。

00年代~現在の音楽ファンにとっては、どちらかというとメインストリームからはやや外れたポジションを保ちつつも、ソリッドなロックを追求するクールなアーティスト、というようなイメージが強めかもしれません。

また、決して多くはありませんが、テレビやラジオに出演して意外な一面を見せる時もあり、特にダウンタウンとの相性は良く「はしご酒」や「ガキ使」への出演では「天然でお茶目なカッコ良いおじさん」の印象を持たれた方も少なくないと思います。

いずれにしても、日本のロック・ポップス史の中では、はっぴいえんどから始まった「日本語でのロック・ポップス表現」の模索を引き継ぎ、さらに進化させ新しいフォーマットを創った革命児であり、桑田佳祐氏と並ぶ「J-POPの中興の祖」といっても過言ではないアーティストだと思います。

82年発表の「SOMEDAY」
84年発表の「VISITORS」

ここまで振り返ると、佐野元春氏のキャリアは一見、順風満帆なものに見えます。
私は佐野氏の作品は全て聴いていて、ライブも数多く参加しており、割とその動向をしっかり観察してきた方なのですが、実は佐野氏の活動は決して表面のイメージほど順調なものではなかったと捉えています。

1-1. 現状からの離脱

確かに90年代半ばまでは、佐野元春氏は紛れもなくJ-ロック・J-POPの中心人物の一人でした。
92年発表のアルバム「Sweet16」はオリコンチャート最高位2位を記録・「第34回日本レコード大賞」優秀アルバム賞を受賞します。
96年のアルバム「 FRUITS」では佐橋佳幸、小田原豊、井上富雄、Dr.kyOnといった日本有数の腕利きのミュージシャンを集め、新バンドINTERNATIONAL HOBO KING BANDを結成し、よりアグレッシブな活動を見せます。

当時の佐野氏の所属は、渡辺美里、BARBEE BOYS、TM NETWORK、岡村靖幸などを擁した、80代の音楽シーンをけん引したレコード会社「EPICソニー」でした。
何かの雑誌の記事で読んだので少しうろ覚えで申し訳ないのですが、当時、渡辺美里さんがレコード会社との仕事上の悩みを佐野氏に相談したところ、
「これから困ったことがあったら僕に相談して」と言われたそうです。
このエピソードは、別に佐野氏がEPIC内の権力者だったいう意味ではなく、佐野氏のEPICへの貢献度がとても大きく、彼が自然と影響力の強い存在であった事を示しています。

ところが03年頃、音質や仕様に問題点の多かったCCCD(コピーコントロールCD)へ反対の姿勢を打ち出した事で、佐野氏とレーベルの間で対立が発生し、04年には佐野氏はEPICを離脱します。
私が知る限り、この辺りの内幕を佐野氏がメディアで語った記録はほとんど無い認識です。佐野氏の姿勢や美意識を考えると、軽々しく裏事情を口にする訳がないので当然といえば当然です。

ここからは私の想像ですが、90年代終わり頃から、時代の変化や上層部の入れ替わりなども重なり、EPICの内部で佐野氏へのバックアップの方針や体制が微妙に変わり、佐野氏にとって理想とする創作環境が維持できない状況になっていったのではないかと推察します。
実際、私は99年に発表されたアルバム「Stones and Eggs」を聴いた時、佐野氏がどこかやりたい事を形にできていないような、空回りしている印象を受け、なんとなく異変を感じた記憶があります。

1-2.新しい環境を作る

EPICを離脱後、佐野氏は04年に自主レーベル「Daisy Music」を設立し、一人きりでの再始動に踏み出します。Daisy Musicは原盤制作および管理を行い、宣伝と流通はユニバーサルミュージックに委託するという契約形態でした。
当時、日本では以前としてメジャーレコード会社へ全面的に頼る活動形態が主流でしたので、業界事情に詳しくない1ファンの私の目には、失礼ながら佐野氏が「ややインディーズ落ち」したように見えてしまったのも事実です。


【個人的エピソード:佐野元春氏に偶然お会いして感銘を受けた話】

ここで唐突に個人的なエピソードで恐縮なのですが、今回の記事の本論ともリンクする内容なので、少し語らせていただきます。

ちょうどこの頃、私は偶然、佐野氏にお会いして握手していただいたことがあります。
それは04年8月に佐野氏が出演した千葉のFM局「bayfm」の開局15周年記念ライブイベントを鑑賞した帰り道だったのですが、トイレを借りようと途中のシティホテルのロビーに入ったところ、そこが偶然にも同イベントの出演者の待機所でした。私がロビーで休んでいたところ、ライブを終えた佐野氏が戻ってきたのです。

当時の佐野氏を取り巻く状況は、前述の通り、少しメインストリームから外れた時期でもあり、80年代の元春ブームの頃のような出待ちのファンは1人もおらず、彼はイベントのスタッフから少し離れた位置のソファに、バンドメイトのDr.kyOn氏と並んで静かに座っており、迎えの車を待っている様子でした。

実はその日のライブは、率直なところ佐野氏の声のコンディションも今ひとつで、ファン目線でみてもベストパフォーマンスとは言いにくい内容でしたので、私はここで声をかけて良いものか、知らぬフリをして立ち去った方が良いのかしばらく悩みました。

しかし「こんなチャンスは2度と無い」と意を決し、座っている佐野氏に静かに近づき、腰を屈めて「いつも応援しています。握手よろしいでしょうか」と声をかけました。
佐野氏はそのロビーに自分のファンが居るとは思っていなかったのでしょう。一瞬驚いた表情を浮かべましたが、わざわざ立ち上がってくれ、しっかりと目を合わせつつも、とても小さな声で「どうもありがとう」と言いながら握手してくれました。
私が去る際も丁寧にお辞儀をしてくれ、どんな状況でもファンに誠実に対応する姿勢に接して感動すると同時に私は、
「生き馬の目を抜くショービジネスの世界で生きる人なのに、なんて繊細な人なんだろう」
と少し心配になった程でした。
※さらに余談ですが、最初私が横目で佐野氏を観察していたところ、普通の人であれば貧乏ゆすりかゴルフの素振りでもして時間を潰しそうな状況ですが、佐野氏は膝の上で指で見えないピアノを叩くような動きを繰り返しており、さすがミュージシャンだと感心した記憶もあります(笑)。



ここからは本題に戻ります。
少し前後しますが、佐野氏が「Daisy Music」を設立してからの第一弾アルバムは04年発表の「THE SUN」でした。EPICで製作した最後のアルバム「Stones and Eggs」から4年半を経て発表されたこの作品は、佐野氏の作品群の中では一見地味目の作品ですが、「不安を抱えつつも小さな希望を抱いて街で暮らす、ごく普通のひとたち」の日常を切り取った、良質な短編小説のような楽曲も多く、過去のどの作品とも異なる素晴らしい内容でした。


04年発表の「THE SUN」

想像ですが、佐野氏がEPICを離脱して「Daisy Music」を設立するまでの間には、大変な苦労があったのではないかと思います。
大きな組織でリソースが揃っている環境から離れて自身でレーベルを立ち上げた訳ですから、ヒト・モノ・お金の調達といった現実的なビジネス的課題を処理しつつ、一方でアーティストとしての活動を並行するというのは、多少創作的な仕事や活動の経験がある人であれば、その大変さが実感できると思います。

これはあくまで私の勝手な視点ですが、佐野氏は前作からの約4年半のインターバルの間、一人の生活者として地に足をつけて「自分の居場所を作った」ことで、創作者としてもひとつ高い次元に登り、それによって「THE SUN」という創作上の新しい地平を切り開いたのだと考えています。

2.等身大の自分でやり切る

07年には佐野氏は新レーベルでの第2弾アルバム「COYOTE」を発表します。
一見、原点回帰したかのようなシンプルなロックアルバムですが、深沼元昭氏や高桑圭氏といった一回り下の世代のミュージシャン達に支えられ、瑞々しくも成熟したサウンドで、「佐野元春完全復活」を印象付けるのに十分な作品でした。

そしてこの「COYOTE」を携え、08年には佐野元春&THE COYOTE BANDとして、全国の小規模なライブハウスを回るツアーを敢行します。
私はこのツアーを、ある地方の普段はアマチュアバンドも多く出演する200人程度のキャパのライブハウスで観覧したのですが、開演前は
「かつては横浜スタジアムを満杯にしたアーティストがこんな所で演ってよいのかな? ご本人のモチベーション的にどうなんだろう?」
などと余計な心配をしてしまった程でした。

しかしこの夜、佐野元春&THE COYOTE BANDは
「これこそが今の自分たちがやれること・やるべきことだ」
と言わんばかりの、ライブハウスという場を生かした疾走感のある素晴らしい演奏を披露しました。
私は、佐野氏がいつもと変わらない笑顔で来場者とバンドに感謝の言葉を述べる姿を目の当たりにして、下世話な想像をした自分が思わず恥ずかしくなりました。

私たちの仕事や生活においても、他人からどう見られているかが気になってしまい、できるだけ過去の自分よりも今の自分を大きくみせようとしてしまう事が多くあります。しかしそのような振る舞いはほとんどの場合、自分に不必要な負荷をかけるだけで、酷い場合には内面のストレスや葛藤を覆い隠そうとして更に虚勢を張ったり、他人を傷つけてしまったりと、負のループに陥って自分を見失ってしまう事すらあります。

実は私自身も、まさに「他人からの見え方」ばかりを軸に置き、虚勢を張って生きてきた時期があります。しかし、結局は未熟な自分に原因があったのですが、ある職場での失敗からダウントレンドに陥り、挽回しようとしてまた失敗するという、完全に自分を見失って泥沼にはまった時期がありました。
何度も自暴自棄になって投げ出そうと思いましたし、今でもそういう気分に陥りそうな瞬間もあります。

でもそんな時、いつもこの時のライブハウスでの佐野氏の姿を思い出し、
過去はとりあえず脇に置いておこう。いまの等身大の自分でできることを、しっかりと堂々とやりきるようにしよう
と切り替えることができるようになりました。

3.最後に

すでに有名な話ですが、素敵なエピソードをひとつ。

昨年22年に、佐野元春&THE COYOTE BANDは最新アルバム「今、何処」を発表しました。コロナ禍や戦争といった現在を生きる私たちの心情を切り取ったかのような作品であり、同時に佐野氏がレイドバックとは無縁の、リアルタイム・アーティストである事を見せつけた傑作でした。

22年発表の「今、何処」

このアルバムの制作にあたり、佐野氏は自主レーベル『Daisy Music』の配給先をユニバーサルミュージックから、古巣といえるソニー・ミュージックに移行しています。
佐野氏は、自身のファンクラブ会報誌『Cafe Bohemia』のインタビューにおいて、
「契約書を取り交わしにソニー・ミュージックに行ってきた。エントランスでスタッフが歓迎し、入口にはWELCOME BACK, MOTOという看板が立て掛けられていた。突然のことで嬉しかった。思い返せば、僕はあの時代に翻弄されるように独立宣言をし、Daisy Musicを設立して以降、独立独歩でここまでやってきた。ソニーとの再会は良い運命だと思う」
というコメントを残しています。

佐野氏の姿勢と歩んだ道程が間違いの無いものである事を象徴した、素晴らしいエピソードだと思います。

そして比べるのもおこがましいですが、ちっぽけな独立事業者である私自身も、いつかこのような地点に辿り着きたいと思った次第です。

東京・品川駅で大々的に展開された「今、何処」のプロモーション風景
(佐野元春 DaisyMusic Info.(公式) on Twitterより)


(おわり)

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