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【祝!サザン45周年】桑田佳祐の仕事術に学ぶ

こんにちは。
皆さまは先日6月25日にYou Tubeで無料配信された「サザンオールスターズ45周年!! 感謝の“45曲”ライブ配信特番「それ、何年? そうねだいたいね」on YouTube」はご覧になりましたか?

45曲もサザンのライブ映像をぶっ続けで鑑賞したのは初めての経験でしたが、とにかく膨大なキラーチューンの数々、あらためて凄いバンドだと再認識しました。

個人的な話で恐縮ですが、私は人生の多感な少年期も、血気さかんだった青年期も、少しくたびれてきた中年期も、いつも音楽やそれらを創作したアーティストから大きな影響を受けてきました。
現在でもアーティストの生き方や考え方について観察したり考察したりすることで、自分の人生や生活のヒントにさせてもらう事が多々あります。

今回取り上げるサザンについても、桑田佳祐氏のバンド運営の仕方や仕事との距離の取り方を観察していると、私たちの仕事上でも参考になる点が多くあります。

1.外部の有能な人材を生かす

私は78年の「勝手にシンドバッド」でのデビュー以来、割としっかりとサザンの動向は追ってきた方だと思います。
あくまでファン視点ですが、サザンには2回の「継続の危機」があったと捉えています。

最初の危機は、85年にLPレコード2枚組仕様で発売されたアルバム「kamakura」をリリースした後、KUWATA BANDで活動していた87年頃です。
もともとKUWATA BANDは、原坊の産休でサザンが一時休止せざるを得ない事情もあって、初めから1年の期間限定活動と決まっていました。
ふつうに考えると、KUWATA BANDが終了した後は、サザンの活動再開という流れが自然です。


85年発表の「kamakura」

しかしこの時、桑田氏は初のソロ活動に踏み出します。
小林武史・藤井丈司という新進気鋭のプロデューサーとアレンジャーをパートナーに、87年10月にシングル「悲しい気持ち」、翌88年にはアルバム「Keisuke Kuwata」という傑作を発表し、ソロアーティストとしても大きな成功を収めました。
また、同じく87年にはコカ・コーラのCM企画ではありましたが、米国の人気男性デュオ、ダリル・ホール&ジョン・オーツとの共演も果たしています。
しばらく後に、雑誌のインタビューで桑田氏がKUWATA BANDの後なぜソロに進んだのか尋ねられ
「ふつうに実家に戻るつもりで近所の角まで行ったんだけど、なんとなく引き返しちゃった」
と独特の例えで語っていた内容がありました。

これは私の勝手な想像ですが、10年以上のバンド運営で、いろいろと面倒な足枷をはめられたり、必要以上の期待と責任を負わされたりと、マンネリや疲れも感じていたのではないかと思います。
常に自虐的なユーモアを交えておもしろおかしく話す桑田氏なので、意外と本音が見えにくい部分もありますが、当時は30歳そこそこ。外に向かうエネルギーに満ちていて、自分ひとりの力を試したくなったとしても何の不思議もありません。

ところが、90年にサザンは初のセルフタイトル・アルバム「Southern All Stars」を製作し華々しく復活します。この時、ソロ活動で大きなサポートの役割を果たした小林武史氏・藤井丈司氏をサザンの製作チームに迎え入れます。
このアルバムは売上枚数120万枚を記録し、自身の作品としては初のミリオンセラーを記録、この作品での貢献をきっかけに小林武史氏もプロデューサーとして脚光を浴びる形となりました。

90年発表の「Southern All Stars」

それまでは学生時代からの仲間でもあるバンドメンバー中心で創作を行ってきた現場に、外部から全く異なるルーツを持つ人間を重要な役割で参加させる形となりました。これも勝手な想像ですが、少なからず複雑な思いを抱いたメンバーやスタッフも居たかもしれません。
私のような平凡な人間ですと、もし若くして社外のプロジェクトに参加し、新しいメンバーとちょっと実績を作ったりしたら、そのまま転職したりと調子に乗った振る舞いをしてしまいそうです。
その点、目先の名声や利益に惑わされず、より多くの人にメリットをもたらす方向をセッティングした桑田氏の視野の広さと判断力は、今更ながらに見習うべき箇所が多くあると思います。

2.適度な逃げ場を作る

サザンの活動は2000年代に入ると、80~90年代の2~3年おきにアルバムとツアーを行っていた頃に比べて、もっとゆったりしたサイクルでの活動にシフトしていきます。
おそらく、サザンが国民的バンドと呼ばれる程に巨大化したため、何かひとつの動きをする都度「大ごと」になり、ステークホルダーやサポートスタッフ等、関係する人たちの単位が大きくなった事も背景にあるのかもしれません。
桑田氏を取り巻く環境も、一見、85~87年の最初の活動休止の頃よりもさらに規模が拡大し、複雑になったように見えました。

ところが桑田氏は90年中期より、そっと自分だけの居場所を作るスタイルを模索し始めています。それが94年に発表されたアルバム「孤独の太陽」です。
この作品は全体的に暗く重たいトーンで統一されており、前作の「Keisuke Kuwata」とは真逆の世界観で構築された、当時としてはかなり異色で衝撃的な作品でした。
この作品の創作の背景には、母親との死別も大きな影響があったようですが、それを差し引いても、エネルギッシュなイメージで固定化されつつあった「サザンの桑田」では見せていなかった、彼の裏側のドロドロした情念を吐き出したような内容となっています。一方で、多くの人の共感を呼び起こす普遍的な親しみやすさも兼ね備えており、桑田氏のソロの中でも最高傑作と挙げる人も少なくありません。

94年発表の「孤独の太陽」

おそらくですが、この作品を作り上げた事で、桑田氏の中でも、「巨大化するサザン」と、それに対して「ストレスと違和感を感じている自分」との折り合いをつける術を見つけたのではないかと推察します。

2000年代に入ると、桑田氏の活動形態は、数年ごとにソロとバンド活動を繰り返す形が鮮明となります。01年にはサザンとして発表しても遜色のない極上ポップな作品「波乗りジョニー」「白い恋人達」が大ヒットを記録します。
一方で02年発表のソロ3作目のアルバム「ROCK AND ROLL HERO」ではTHE BALDING COMPANYというバックバンドを結成し、ボブ・ディラン+ザ・バンドを意識した、より自由な形態でエッジの効いたロックンロールも展開します。
もはや他人が決めつける枠や見え方などを気にしない、ふっきれた動きを見せるようになります。

05年にはサザンとして集大成的なCD2枚組の大作「キラーストリート」を発表しますが、09年に突如サザンは無期限の活動休止を発表します。
この時を私は「サザン2度目の継続の危機」と考えているのですが、おそらく85年の「KAMAKURA」の時と同様に、桑田氏の中ではサザンについてかなりの「やり尽くした感」があったのではないかと想像します。
「キラーストリート」は良い作品ではありましたが、どこか既視感もある内容で、もしかすると、この頃の桑田氏には「疲労感」に近い感覚すらあったのではないかと推察します。
(この時の桑田氏は53歳ですが、ちょうど今の私と年齢がほぼ一緒なので、今となってはよく理解できます)

05年発表の「キラーストリート」

しかしながら、サザン2度目の活動休止後は、桑田氏は再び身軽さを取り戻し、歌謡曲オマージュや緻密な密室ポップ等、完全にサザンの枠や流れにもとらわれない吹っ切れた動きを見せ、その活動スタイルもすっかり定着した感があります。

私たちの仕事や生活においても、それまでの流れやしがらみで、ひとつの環境や状況にとらわれて身動きがとれなくなってしまう事がよくあります。
でもそんな時、思い切ってそれまでと全く違う動きをしてみたり、全く違う環境に身を置いてみたりと、「上手に逃げる」ことが、意外と打開策につながるのかもしれません。

桑田氏はまさに上手に「逃げ場」を作って、自身のバランスをとることに長けています。それが結果的に周囲の仲間やビジネスパートナーたちに良い影響を与えています。
私も何度もサザンや桑田氏のライブに足を運びましたが、サザンが常に献身的なスタッフに支えられており、その良い雰囲気がファンにも伝播し、それがまたメンバーやスタッフにフィードバックされて好循環が生まれるという、理想的な環境であることを実感させられました。

私自身は今でも未熟なままですが、少しでも桑田氏のように柔らかいスタンスで仕事の環境を作れるようでありたいと、サザンの45周年YouTube無料配信ライブを見ながら思った次第です。










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