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何があってもアクナマタータ<アフリカ旅行記>~スマートフォンのない時代に人はどうやって旅をしたのか その7

野生動物をこの目で見たい、それがアフリカへの旅の一番の目的だったけれど。サファリツアーを通して、そこに住む人々のことについて、アフリカの文化や社会、経済について、自分がいかに無知であったかを思い知ることになりました。


    〈目 次〉
はじめに
一  アフリカに行こう!
二  怒涛の予防接種
三  タンザニアのビザを取る
四  果たしてアフリカへ行けるのか!?
五  孤島リゾート、チャーレ・アイランド
六  サファリへの戦い
七  とうとう、サファリだ!!
八  アンボセリ国立公園まで
九  マサイの村を訪ねて
十  レイク・ナクル国立公園まで
十一 マサイマラでチータを探す

十二 旅の終わり
十三 戦いの幕切れ
おしまいに


九 マサイの村を訪ねて

〈十二月十二日 日曜日・ケニア独立記念日〉
 六時起床。キリマンジャロがほんの少し見えた。
 朝食前にゲームドライブ。六時半に出発予定だったのだが、ジャーナリストが遅刻。やや遅れて出発。バッファロー、ハイエナ、バブーンの群れ。
途中、キリマンジャロがはっきりと姿をあらわした。朝日を浴びてとても美しい。
 そのキリマンジャロを背景にまたしても象の群れ。素晴らしい絵だ。車に乗った全員が、ビデオやカメラ、双眼鏡を取り出して、しばし撮影。聞こえるのは溜息のみ。

 八時過ぎ、朝食。パンの種類が豊富でおいしい。
 十時、オプションツアーでマサイ村へ。マサイの物売りにはすっかり辟易していたけれど、入村料五百シリングを払えば何も買わなくてもよいという話だったので行くことにした。
 十一時ごろマサイ村に到着。入り口に数人のマサイ。重そうなイヤリングをつけた耳たぶがびろーんと長く垂れ下がっている。垂れ下がった耳たぶをぐるぐると耳に巻きつけている人もいて、ぎょっとする。
 マサイが身につけている真っ赤な布は、野生動物から身を守るためと、お互いに居場所がわかるように目立たせるためのものらしい。
 英語を話す村長に案内してもらう。他のマサイはみな痩せて肉食の野生動物のように精悍なかんじだが、村長はまだ若そうなのに小太りだ。どことなく芸術家のクマさんに似ている。これでもかというほどアクセサリーをじゃらじゃらさせて、腕にはさらに立派な時計を嵌めている。
 マサイ村の周囲には、牛や山羊の他ロバがたくさん飼われている。牛や山羊は食料を得るためのものだが、ロバは移動の際に荷物を運ぶためのものらしい。そうか、マサイは遊牧民だから、しょっちゅう家財道具を持って移動しなくてはいけないのだ。あんなにアフリカに行きたいと言っていたくせに、マサイ族についてはなんにも知らなかったことに気づく。
 この村には四家族百二十人が住んでいるという。え、ってことは、一家族あたり三十人! 仰天したが、マサイは一夫多妻制だから一家族の人数が多くなるらしい。
 基本的には牧草を追って遊牧生活をしているマサイだが、この村は近くにいい水場があるため、ここ五年ほどは女性と子どもだけここに定住しているという。近くの三つの村と共同の学校もあるらしい。
 家のなかを見せてもらう。牛の糞で塗り固めた壁、藁葺きの屋根。入り口や窓が狭いのでなかは暗くて涼しい。目が慣れてくると、部屋の様子がよく見えてくる。入ってすぐに竈のある部屋、左手に小さい子供部屋、右手奥に一番広い夫婦の寝室。ベッドには牛の皮が敷かれている。家は小さいけれど、しっかりとした柱が組まれている。家を作るのは女性の仕事らしい。
 家を見た後は、村の真中の広場で歌と踊りを見せてもらう。どこから出ているのかわからないような声で歌が歌われる。一人一人が高く垂直に飛びあがる、狩の前の踊り。いかにもアフリカという感じだ。しかし、なんとなく嫌々やらせられているという雰囲気が漂う。この人たちだって、ほんとうはこんな風に自分たちの生活を見世物にしたくはないのだろう。ただ、押し寄せる物質文明の波からマサイだけが孤立を守ることは難しい。金を稼ぐとなると、彼らにはこうして自分たちの生活を切り売りするしか方法がないのだ。
 そういうあきらめの気分が漂う歌と踊りを見た後は、やはりお決まりのアレだ、土産物がならんだ場所に案内される。「ゆっくり見てなにかほしいものがあったら教えてくれ」という村長の口ぶりはおだやかだったが、わたしたちにまったく買う気がないのがわかるとあきらかに不機嫌な顔つきになった。
 そのまま村長は、教師にインタビューしたいというジャーナリストと一緒に学校へ向かう。残った四人はフセインの待つ車へ戻る。車の側にいたマサイたちが、ぞくぞくと物々交換を申し入れてくる。かなり強引だ。腕時計をしてこなくて本当によかった。わたしたちが交換できるものを何も持っていないことがわかると、あきらめたように離れていく。
 また今度アフリカに来ることがあったら、家にあるいらないTシャツとか腕時計、サングラスなどたくさん持ってくることにしよう。
 十二時過ぎ、マサイ村を出る。
 フセインの話では、ジャーナリストが入村料だけでインタビューをしたことに村長は腹を立てていたらしい。誰も何にも買わなかったし。でもこちらは入村料をきちんと払っているのだから、そんなことを言われる筋合いはないとも思う。ジャーナリストも村長から直接お金を要求されたらしい。
「まったくすぐに金、金、金だ。ツーリストを歩く財布だと思っている。人から恵んでもらおうとばかりしてないで、働けよ」
 とジャーナリストが憤っている。
「でも私たちは貧しい。一生懸命働いていても、すぐに生活は楽にならない。援助が必要なんだ」
 フセインが反論する。
「確かに今君たちは貧しい。でもわれわれだって百年前には貧しかった。食べるものにも困っていた。でも一生懸命働いて、今ようやく少し豊かになった。働かなければお金はできない。アフリカ人はだいたい努力が足りない。もっと働く必要がある」
 ジャーナリストとフセイン、双方の言い分は平行線のようだ。もちろん立場上、その場はフセインの方が折れた形になったけれど。
 ここまでの間あちこちで貧しさが凝縮されたような風景を目にした。でもその貧しさはどこから来たものなのか。ホテルのスタッフもダイビングガイドのラシッドも、今ここにいるフセインだって、一生懸命働いている。でもなにか社会全体としてはうまく回っていない。仕事も物も何もかもが不足しているというかんじだ。個人の努力で何とかできるレベルではなく、もっともっと根本的な、社会構造的なところに問題があるのではないかという気がする。
 ヨーロッパ人は、自分たちが植民地として統治していたころは物事はもっとうまく行っていて、独立してからいろいろな問題が出てきているのだという。アフリカ人に政治はできないと本音では思っているようだ。今の苦しい社会状況を作り出したのは、アフリカ人自身の責任なのだから、もっと自分たちで努力しなさいという言い方になるのだろう。
 アフリカ人の立場からすると、これまでヨーロッパ人に搾取されてきた歴史があるから、今自分たちが貧しい責任の一端はヨーロッパ人にあるという気持ちがある。そこにヨーロッパからたくさんの観光客がやってくる。お金を持った観光客から、できるだけ搾り取ろうという気持ちになるのもわからないではない。
 しかし実際にそういう場にまぎれこんだ、さほどお金を持っていない一観光客としては、あまりにも「お金を搾り取ってやろう」という態度ばかりが目につくと、正直、また来ようという気が削がれてしまう。
 途中で給油し、十二時半ロッジ着。昼食後、昼寝・読書。のんびりするのは久しぶりだ。

 十六時からゲームドライブ。
 さっきのドライブではちょっと重苦しい雰囲気になってしまったので、軽い話題を探す。そうそう、スワヒリ語を教えてもらおう。
 「マンボってどういう意味なの?」と訊ねてみる。「ジャンボー」という挨拶の後、時々「マンボ?」と訊かれることがあったのだ。
「ホワッツアップ、なんか変わったことあった? くらいの意味ですね」
 とフセイン。そう訊かれたらたいてい「ポア」と答えるという。「別に」という感じらしい。
 今日は動物が少ない。どうしたことか。ウォーターバック、ヌー、バッファロー、フラミンゴ、ハイエナなどありふれた動物たちばかりだ。今日は祝日だから動物も休んでるのだろうか、とフセインが冗談を言う。
 オブザベーション・ヒルと呼ばれる丘に登る。その名のとおり、ここからは公園が一望できる。
 丘の上に、さっきのマサイ村で出会った青年がいた。一緒に写真を撮ろうと言う。写真を撮らせてお金を取ろうという商売だ。さっき撮ったからもういい、と断る。
 青年はこの丘にはほとんど毎日きているらしい。あの村からはかなりの距離があると思うのだが、マサイの人たちは本当に健脚だ。
 大きなトラックを改造したサファリ用の車に乗った日本人団体と出会う。ほとんどが親子連れのようだ。ふと、子どもたちにもいろいろな予防注射やマラリアの予防薬を飲ませたりしているのだろうかというのが気になった。ヨーロッパ人観光客には子ども連れは驚くほど少ない。
 ロッジに帰る途中、車の調子がおかしくなった。ラジエーターの故障らしい。この車はすでに十八万キロ以上走っているという。同じ時期に購入した他の三台はすでに死んでしまって、残っているのはこれ一台だという。
 会社から二十万キロ乗るまでは次の車を買わないと言われているので、人一倍メンテナンスに気を使って大事にこの車を使っているのだとフセインが言った。しかし彼には基本的な車の整備の知識がないので、わからないことがたくさんあるようだった。
 うちの夫は自動車会社に勤めており、エンジニアではないが簡単な修理やメンテナンスなら何でも自分でできる程度の知識はある。故障具合をチェックして対応をフセインにアドバイスした。フセインは知識に飢えているらしく、夫が車に詳しいことを知ると喜んで質問攻めにした。

 十八時半ロッジ着。シャワーを浴びてバーでピニャコラーダを飲む。
 二十時からプールサイドでバーベキューディナー。トムソンガゼルの肉があったので食べてみる。歯ざわりは鯨肉みたいなかんじだ。ミディアムくらいに焼くとなかなかおいしいが、脂がないせいか冷めると固くなっておいしくない。
 食後ロビーにて、マサイ族の歌と踊り。昼間見たのとほとんど同じだった。
 明日も出発が早い。二十二時就寝。

十 レイク・ナクル国立公園まで

〈十二月十三日 月曜日〉
 六時起床。荷物をまとめて外に出る。陽が昇ってきた。朝日のなかにキリマンジャロがくっきり見えた。本当に美しい山だ。
 六時半から朝食。
 七時、次の目的地へ出発。ジャーナリストはここでサファリを終えナイロビへ行くというので、フセインの車には、ギド、ミーケとわたしたち夫婦の四人だけになった。ジャーナリストが何の別れのあいさつもしなかったとフセインが憤慨している。彼との議論がまだ心にわだかまっているのかもしれない。
 ロッジを出てから公園を出るまでの間にも、いろいろな動物たちが見られた。ジャッカルの親子、ハイエナの親子。ダチョウはとても大きく、遠くからでもよくわかる。サイボーグ009みたいなセクレタリーバードは、木の枝を集めて巣作り中だった。キリンやゼブラはごく普通に見られる。メスをめぐるトムソンガゼルのオス同士の戦いも見た。
 八時十五分、公園を出る。公園の外にはそれほど見るものもなく、車を飛ばすフセイン。でこぼこ道を早く走ると振動がものすごい。「ロードマッサージと言うんだよ」とおどけるフセイン。
 途中、黒い服を着たマサイの少年たちを見る。黒い服は、男女とも割礼を受けてからしばらくの間身につけるということだ。割礼の傷が癒えたという医者の診断がおりたら再び赤い布をまとい始めるのだという。
 それを聞いたミーケが、女子に行う割礼がいかに精神的にも肉体的にも大きなダメージを与えるものかを切々と語っている。
 アフリカには、マサイだけでなくこの習慣が残っている部族が多いらしい。西洋人から見ればまったく原始的で野蛮な風習であり撲滅すべき割礼であるが、フセインによると、自分たちの種族とその文化を大切に思っているアフリカの人たちにとっては、無くすことなど考えられないもののようだ。
たしかに、ヨーロッパ人の言っていることは、科学的な面では正しいかもしれない。でもだからといって一概に西洋人の価値観を押し付けてしまっていいのだろうか。もう少し、自分たちと異なる文化に対する敬意を持ってもいいのではないだろうか。そんなことを考えながら二人の話を聞いていた。

 九時十五分、土産物屋でトイレ休憩。ずっと我慢していたのでほっとする。サファリの旅で一番辛いのは、やはり行きたいときにトイレに行けないことだ。これでお腹でもこわしていたらどうなることやら。三十分ほどで出発。しばらくは舗装道路が続く。
 十二時頃、ナイロビ近郊に到着。養鶏場や工場が増えてくる。GMやヒューレットパッカードのほか、三菱、トヨタ、ファイアーストーンなど日本企業の工場も多い。ナイロビは、人も車もバラックもぎゅうぎゅう詰め状態で、ものすごい、の一言。
 十二時半、カジノの中にあるトゥーナ・ツリーというレストランで昼食。いかにも観光客向けのレストランという雰囲気だ。ブッフェ。デザートにアイスクリームがあったけれど、「アイスに使われている水でお腹をこわす人がいるのよ」とミーケに言われて食べるのをやめた。日本人の姿もかなりみかける。
 フセインとアブドラは二人ともイスラム教徒で、今はラマダン中らしい。明るい間は食べ物はもちろん水さえ口にしない。こういう仕事をしながらのラマダンはかなりきついだろうと想像する。

 十三時半、次の宿泊地であるナクル方面へ向かって出発。
 ナイロビ近郊に入ってからずっと気になっていたのだが、やたらと警官の姿をみかける。巨大な剣山のおばけのようなものが道の両側から飛び出しているので、そこはゆっくりと通過するしかない。警官は肩に大きな銃を下げていて、ものものしい。一体何をチェックしているのか。人と荷物を満載したトラックが止められていたので、おそらく過積載の車を規制しているのだろう。
 すれ違う車の運転手と、フセインが時々親しげに握手や挨拶をかわしている。自分と同じ村の出身者だと言う。
「ずいぶんたくさん知り合いがいるんだね」
「直接知ってる人じゃないけど」
「え? じゃあ、どうして自分と同じ村の出身ってわかるの?」
「顔についた模様とか、顔つきで」
 アフリカでは、いまでも顔に傷をつけて模様を入れている人が多く、模様は部族によって決まっているらしい。それにしても顔つきだけで同じ部族だとわかるなんてすごいことだ。
 途中、広大な丘陵地を通過する。かなり長い登り坂が続く。路上には、毛皮の帽子や敷物を並べる店や八百屋など様々な露店が出ていた。
 なかでもおもしろかったのは、ホィールキャップ屋。いかにもあちこちから無理やり(?)かき集めてきたというような、寄せ集めの中古ホィールキャップが二十個ほどバラで売られている。同じような店が何軒もあるのがまた不思議だ。
 かなり標高が高くなり、あたりには杉などの針葉樹も増えてきた。
 ナイバシャという町を過ぎると、マウ大渓谷を見下ろせる。この一帯はプランテーション農園になっている。地主はイギリス人でとてつもなく金持ちらしい。いまだにアフリカの富はヨーロッパ人に押さえられているのか、とまたしても思い知らされる。
 それでもこの地域は、この農園のおかげでケニアのほかの地域と比べて裕福らしく、建物もバラックよりは少しましな二階建て家屋が続き、村には私立の学校さえあるらしい。

 十六時、レイク・ナクル公園入り口に着く。入り口前の土産物屋でトイレ休憩。ここでも物売りの攻撃だ。しかしいつまでもやられっぱなしのわたしたちではなかった。日本のコインを持っているという若者がいたので、夫が一計をめぐらした。
 以前から目をつけていたキリンの木彫りのついたブックエンドの値段を聞く。最初の言い値は、三千五百シリング(約四千九百円)。かなり強引な値引き交渉の末、千七百シリング(約二千四百円)まで下げさせることができた。
 そこで日本のコインを持っている若者に、
「店主と交渉して千二百シリング(約千七百円)にしてくれたら、君が今持っている何の使い道もない石ころ(日本の硬貨七百円分のこと)を四百シリング(約五百六十円)と交換してあげよう」
 と持ちかけたのだ。
 千七百シリングが利益の上がるぎりぎりの金額だったらしく、なかなか店主もそこまでは下げてくれない。しかし若者が必死にがんばってくれたおかげで、二十分ほどの交渉のすえ、夫は千六百シリングと交換にブックエンドと七百円を受け取ったのだった。
 大喜びの若者はいつまでもうれしそうに手を振ってわたしたちの車を見送ってくれた。こっちは金額的にはさして得したわけではないが、なんとなく達成感が味わえた。

 十六時二十分、公園に入る。
 すぐに、木の上に骨と皮だけになったインパラの死体がぶらさがっているのが見えた。レパードの仕業だという。
 この公園にはレパードが確かにいるのだ。目を皿の様にして木の上ばかり眺める。
 タンザニアでレパードを何度も見た、とミーケが言う。
「タンザニアは本当にすごかったわ」
 それは本当ならわたしたちが見るはずだったもの、とまたくやしくなる。
 レパードが特に好む木があるのかフセインに聞いてみると、アカシアとソーセージツリーだという。ソーセージツリーというのは、ソーセージというよりは巨大なヘチマのような実がたくさん生る木の俗称らしい。マサイ族は、このソーセージの実に蜂蜜と水を加えて酒を造るのだそうだ。ソーセージツリーを探すが、ここよりもマサイマラのほうに多いとのことだった。
林の中に、他の地域では珍しいロスチルドジラフというキリンが群れている。あまりにたくさんいるものだから、キリンの林のようだ。コロバスモンキーという白と黒の毛の長い美しいサル。
 そして、この公園での一番の見物は白サイ。他のナショナルパークとちがって、ここは一度も密猟が行われたことがないため、他所ではほとんど見ることができないサイが、ここでは簡単に見ることができるのだ。サイの密猟というと、角を漢方薬の材料として珍重している中国人とはんこの材料にする日本人が悪名高い。タンザニアのナショナルパークでは、このサイの角を狙う密猟者が一日に四十人以上のレンジャーを殺すという事件があったらしい。まったくひどい話だ。もしその密猟に日本人が関わっていたとしたら、本当に恥ずかしく悲しい。
 実際、公園の中には何匹もサイがいた。サイの動きはゆっくりとしていて、驚かさなければじっくりと眺めることができる。道路を歩いている親子サイを、車を止めて眺めていると、後からやってきた数台の車がより近くで見ようとして、サイを追い回す格好になってしまった。子を連れた母サイがかなり興奮した様子で車を威嚇している。
「そんなに追い回さないで! これじゃハラスメントだよ!」
 思わず叫ぶ。

 十八時四十五分、日暮れと同時くらいにレイク・ナクル・ロッジ到着。こじんまりしたかわいいロッジだ。部屋も、小さいけれどカーテンや寝具などのデザインがかわいい。シャワーと水道の水はぬるぬるしている。飲用水は置かれていなかった。(他のロッジでは、飲用水が水筒に入れて置かれていることが多い。)
 シャワーを浴びて、バーへ行く。暖炉の火がうれしいくらいの冷え込みだ。ここのバーには生ビールがあり、暖炉の傍で冷えたビールを飲む。どんなに寒くてもこれはうれしい。
 この公園で撮影したらしいテレビ番組のビデオ(ライオン特集)が上映されていて、たくさんの本物を見てきたというのについつい見入った。
 二十時から夕食。サラダとデザートはブフェだが、前菜とメインはメニューから選ぶスタイル。メインにインド料理と中華を選んだ。とてもおいしくて今夜も食べ過ぎてしまう。
 日本人二十人ほどの団体と一緒になった。こんなにたくさんの日本人を見るのは今回の旅で初めてかもしれない。
 生ギターで歌う歌手登場。車の中のラジオでもよく耳にした、「アクナマタータ」と繰り返す歌を弾き語りで歌っている。日本人団体がチップを渡して、歌手を独占している。
 二十二時就寝。寒いくらいだ。長袖をほとんど持ってこなかったのを後悔する。

十一 マサイマラでチータを探す

〈十二月十四日 火曜日〉
 六時起床、パッキング、外には荷物を運ぼうとするポーターたちがたむろしている。
 六時半、朝食。ソーセージ、ベーコン、ポテトに煮豆。ほんとにどこのロッジでもほとんど同じメニューだ。それでもここはパンケーキがおいしくて二枚食べる。
 七時半出発。今日は午前中少しだけゲームドライブした後、昨日通過したナイバシャの町を経てマサイマラまで移動の予定だ。昼食は途中でピクニックするため、ロッジでランチボックスを作ってもらう。
 ゲームドライブでは、今日もたくさんの動物を見る。インパラ、バブーン、ブッシュバック、ウォーターバック、ゼブラ、バッファローの群れ。サイ、ウォートホグ。
 最初は珍しかった動物たちでも、何度も見ていると飽きてくるものもいる。バッファローや象とかキリンは、始めはその大きさに驚いたりもしたけれど、あんまりしょっちゅう見ていると、「ああまたアレね」というかんじになってくる。サイもそうだ。逆に、小さくて特に珍しいわけでもないが、何度見ても楽しいものもいる。トムソンガゼルは柄がとてもかわいらしいし、ウォートホグもお気に入りのひとつだ。ウォートホグは小さな牙を持ったいのししなのだが、逃げるときに尻尾をピンと立てて短い足をちょこまかと動かして走る。その姿が漫画みたいでものすごくかわいい。足が短い割に走るのが早いから『ケニア・エクスプレス』という呼び名があるらしい。

 レイク・ナクルは、一昔前までフラミンゴの群生地として有名なところだった。今でもフラミンゴは見られるが、そんなに数は多くない。
 数年前、生活廃水によって湖の汚染が進み深刻な問題となっていたので、日本のJICAが浄水機を贈った。それで湖の水がきれいになったのはよかったが、今度はプランクトンの発生が減ってしまい、皮肉なことに大事な観光資源であったフラミンゴが減ってしまったということだった。
 湖のほとりで、許可をもらって車から降りてフラミンゴやカバを近くでみる。アブドラのグループのおばさま方は、こういう湿地に降りるときにはきちんと靴にカバーをかけている。それを見て「あんなの、ショーサファリよ。格好だけ」と陰口をいうミーケ。どうも、あっちのグループのお洒落な方々が気に入らないらしい。「あの人たちと同じ車にならなくてほんとに良かったわ」と言っている。同じベルギー人でも、いろいろと難しいのだ。

 九時四十五分、公園を出て昨日来た道を走る。
 十一時、地元の人用のドライブインに入る。トイレは汚いがタダ。売っているものが何でも安くてびっくりする。ミネラルウォーターはロッジの半分くらいの値段なのでまとめ買いする。
 ナイバシャの町で銀行や郵便局に寄る。郵便局周辺には汚れた格好の浮浪児たちがたくさんいて、車を降りるとすぐに群がってくる。
「お金をくれ」
「ボールペンをくれ」
「食べ物をくれ」
「お腹がすいた。パンを買ってくれ」
 と言って手を出してくる子どもたちに、
「物乞いするんじゃない、ちゃんと働け」
 と夫が一喝。しゅんとして、すぐに引き下がった。なんだかかわいそうな気になる。
 フセインはガソリンスタンドで車の整備。昨日から不調のラジエーターを水で洗っている。夫も整備作業に参加。クーラントを入れてもらうが、ガソリンスタンドの店員が持ってきたのは、薄茶がかった透明な液体で、水に混ぜると白濁した。どうみてもブレーキ・フルイド。クーラントなら普通、赤か緑のはずだ。何度も店員に確認するが、これがクーラントらしい。ケニアスペシャルなのだろうか。まあ、入れられたのがブレーキ・フルイドだとしても、すぐにものすごく困ったことにはならないという夫の判断で、そのまま出発。

 十三時、道端の土産物屋のベンチで昼食。ロッジで作ってもらったランチボックスには、サンドイッチやフライドチキン、バナナなどが入っていた。
ここでも物売りがやってくるがそれほどしつこくない。
「いいTシャツ着てるね。もう一枚持ってないの?」
「ボールペンちょうだい」
 というくらい。
「これしかないからダメ」
 というとあきらめる。
 トイレを借りたら、床に穴がぽっかり開いてるだけの小部屋だった。
 十三時四十分、出発。五分も走らないうちに、一足先に出発したアブドラの車が止まっているのを発見。ファンベルトが切れたらしい。すぐにスペアと交換。
 修理が終わるのを待っていると、どこからともなくマサイの子供たちが集まってくる。ミーケが子どもたちにお菓子を配っている。さっきの浮浪児たちには何もあげなかったのに、どういうことか。
 十五時、オイルフィルターとスペアのファンベルトを買うためナロックという町に寄る。
 フセインは自分の車のエンジン型式を知らなかったので、夫が車の整備手帳を探し出して一緒に店へ。だが、そのエンジンに適合するものは店にはなく、なにやら怪しげな偽ニッサン製を買う。
 フセインは今まで何度もオイルフィルターを交換しているらしいが、一度も適合するものを買ったことがないようだった。うーむ。売ってないのだからしかたないか。
 町を抜けるとやがて舗装道路が終わりでこぼこ道になる。途中いくつもマサイ村を通過。
 十七時、マサイマラ公園入り口到着。ゲート前ではまたマサイの物売りの攻撃にあう。当然ながら何にも買うものはない。一ドル紙幣をケニアのお金に替えてくれ、というのでロッジのレートより少し安い六十シリングで交換。

 マサイマラ国立公園は、タンザニアにあるセレンゲッティとつながっている。数ある国立公園の中でも、動物の数が多いことで有名だ。
 ここなら運がよければ『ビッグ5(ファイブ)』と呼ばれる動物すべてが見られると言われている。ライオン、サイ、バッファロー、象、そしてレパードだ。このうちわたしたちがまだ見ていないのは、レパード。どうしてもレパードが見たい。チータでもいい。レパードとチータの違いは、簡単に言うと、レパードの方が頭が大きく足が短い。斑点は、黒いドーナツ型で中が黄色い。夜行性で、木の上に登って餌を食べ寝る。チータは、頭が小さく足が長い。足が速く昼間狩りをする。斑点は黒一色。チータにしても、レパードにしても、見つけるのはかなり難しいらしい。とにかく、この公園での目標はレパードかチータに決定。
 そういう話をわたしたち夫婦がしていると、
「タンザニアでどっちも見たけど、しばらく見てないからまた見たいわ」
 とミーケが言う。もう、ええかげんにせい、って。
 公園内をしばらく走っていると、食べられたばかりのインパラの足と皮があった。食べたのはチータだ、とフセインが言う。少し離れたところに、マサイ族の子どもが、いかにも『獲れたて』の、血の滴るようなインパラの足を持って立っていた。チータを見かけたかどうかフセインが尋ねてみる。あっちに行ったよ、と指差す方に車を進めるが残念ながら姿はない。
 まだ一日残っている、と希望をつなぐ。

 十八時半、マラ・ソパ・ロッジ着。立派なロッジだ。部屋も広い。
 シャワーを浴びて、バーでビールを飲む。飲み物類が今までの宿よりもやや高い。
 二十時から夕食。ブフェ。一本千シリング(約千四百円)のスペイン産赤ワインをもらう。二泊するならボトルでとったほうが割安だ、とウェイター勧められてとったのだが、結局一晩で飲んでしまった。料理は辛いものが多くとてもおいしい。
 二十一時半からマサイダンスのパフォーマンス。
 二十二時からプールの裏側で餌付けショーがあるというので覗いてみることにした。開始時間少し前からハイエナが集まってきた。餌を置くと同時に十匹以上のハイエナが群がってがつがつと餌を漁る。まったくハイエナというのはエレガントじゃないなあ。
 しばらくしてハイエナが一時いなくなると、狸くらいの大きさで尻尾の長い、豹紋のある獣が現れた。ジェネットキャットというらしい。ってことは猫! やはりネコ科は姿も動作もかわいらしい。(見た目は猫っぽいが実はジャコウネコ科で、ネコ科とは別だと後から知った。)少ししてまたハイエナが現れ、ジェネットキャットは慌てて逃げていった。
 弓矢を持ったマサイ出身のガードマンに連れられて部屋まで戻る。ロッジの周りにも、野生動物がたくさんいるので、安全のためだろう。
 二十二時半、就寝。
 夫は夕食後からお腹の調子が悪いと言っていた。下痢止めを飲んで寝る。しかし夜中に何度かトイレに起きる。わたしも明け方から下痢。電気の止まった部屋は真っ暗で、手探り足探りしながら何度かトイレへ行く。
 夕食に食べたものを思い返して怪しいものを探す。特にこれまでと違うものは無かったように思うが、わからない。ひょっとしたらワインか。いや、それはないよな。
 しかし腹を下して、明日のサファリは大丈夫なんだろうか。

〈十二月十五日 水曜日〉
 下痢で夜明け前に目が覚め、その後は外にいる人の話し声で寝つけず、六時半には起床。朝食は、お茶だけにする。
 七時半からゲームドライブ。下痢止めを飲んではいるが心配だ。念のためトイレ用の紙と水を持参して車に乗る。みんなに「下痢しているから、いざというときは車を止めて下さい」とお願いする。恥ずかしいなどと言ってはいられない。我慢しきれなくなったら車を停めてもらって、茂みで用を足そう。
 道ばたからいきなり、頭だけ毛がふさふさと生えたディックディクが飛び出してきて、一同「かつら?」と爆笑。トピーという大型のカモシカの仲間を見る。色が鮮やかで、膝のあたりでくっきりと色分けされた足がまるでパッチを履いてるようだ。カモシカ類はどれもかわいいのだが、いつも群れでいるし種類も多く見分けのつきにくいものも多い。なんとなくチョウチョウウオの仲間に似ていると思う。
 背丈の高い茂みの前に若いメスライオンが一匹。よく見ると、茂みの中に子ライオンがいるようだ。子が小さすぎるうちは、オスライオンから守るため母子は群れから離れて生活するのだという。
 ライオンはいつも堂々としていて、車が近くにきても逃げることは無い。いつまでも見ていたいがそういうわけにもいかず、移動。
 フォックス、マサイキリン、象、マングースの群れなど見るうち、またライオンの群れ。今度は、メス二頭に一才半くらいの子ライオン三頭。まだおっぱいを飲んでいる。子どものうちは足に斑点があるのを知る。
 公園内にふいに郵便局が現れた。こんなところに誰が郵便を出しに来るのだろう、と思っていると、近くにレンジャーのキャンプとロッジがあった。キリンや象が郵便を出すわけではないようだ。あたり前か。
 九時四十五分、ロッジでトイレ休憩。三十分ほどで出発。
 メスライオン四頭の群れ、象、キリンの群れ、ハイエナ、陸ガメ。遠くにセレンゲッティ(公園のタンザニア側)の深い緑が見える。
 十一時五十分、一瞬だけタンザニアに入る。
 タンザニアとケニアの国境には、石碑のようなものが立っているだけだった。大きな石の右にタンザニアのT、左にケニアのKと書かれているだけの国境で笑ってしまった。今われわれは、あれほどがんばって来ようとしていたタンザニアに足を踏み入れているのだ。
「ほら、念願のタンザニアよ」
 ミーケに言われて四人並んで石の前で記念写真を撮る。
 ヌーの集団移動で有名なマラ川に着く。マラ川は国境の川なので、軍人が常に数人警備にあたっている。
 川のほとりまで降りてみる。カバがたくさんいた。それにしてもすごく臭い、としゃべっていると軍人がやってきて「臭いのはこれだよ」と教えてくれた。指差したところをみると、腐敗したヌーの死骸が浮かんでいた。川を渡り損なって死んだものらしい。よくみると、そんな死骸がいくつもあった。
 その軍人が、大きなクロコダイルのいるところまで案内してくれるという。途中カバの通り道や泥を食べる場所などを教えてくれて、まるでガイドのようだ。しかも無料。これまで何かにつけてお金を要求されてきたものだから、つい何か落とし穴があるのではと疑ってしまうが、純粋に親切心からの行動のようだ。疑ってすまなかった。
 クロコダイルのいる岸辺にはカバもたくさんいた。カバのオス同士のけんかを見た。すごい迫力だ。ミーケはどことなく風貌が似ているカバに特別に愛着があるのか、カバが見られるたびにとてもうれしそうにしている。
 軍人の話では、ヌーの大移動の時期は特に決まっていないらしい。その年の天候によって変わってくるらしく、今年は、少し前にタンザニア方面へ移動したらしい。ヌーを餌としているレパードは、ヌーと一緒にタンザニア方面へ移動している可能性もあると言われた。そうなると見られる可能性はさらに低くなってしまうなあ、と落胆する。ああ、タンザニアよ。
 十二時四十五分、出発。軍人二名もキャンプまで乗せる。
 川にたくさんのハゲワシやコウノトリが群れている。死んだヌーの肉を漁っているのだろう。
 またまたライオンの群れに会った。今度は立派なタテガミのあるオスライオン一頭とメス三頭の群れ。オスライオンは顔中傷だらけだ。
 キャンプの前で軍人たちと別れる。国を守るために働いている彼らの顔つきはすがすがしく、ホテルで働く人やガイドたちともまったく違った、よい顔をしていた。
 心配していた腹の具合は二人ともなんとか大丈夫だった。後で本を読んで知ったことだが、ライオンなどネコ科の動物にとって、茂みから見え隠れする頭ほど狩猟意欲をそそられるものはないらしく、もし茂みで用を足しているところをたまたまライオンにみつかったら、お尻を出したままの情けない格好でライオンに襲われるという事態になってしまうところだった。ドライブ中にもよおさなくて、本当によかった。
 もうすぐロッジ、というところで突然車がおかしな音を立てて停止。ファンになにかが挟まって回らなくなってしまったようだ。カバーをはずしたら音が消えたので、出発。
 十四時半ロッジ着。朝はお茶だけだったので、おそろしく空腹。量を控えめに食べてみる。部屋に戻って少し休む。

 十六時すぎ、再びゲームドライブに出発。これが最後のゲームドライブだ。果たしてチータかレパードを見ることができるのだろうか。
 大きなクレーンが立ち並んでいるようなキリンの群れ。トピーの親子がたくさんいた。
 するとまたしてもライオンの群れ。今度はメス七頭(うち五頭はまだ若い)という大きな群れだ。
 車を止めて見ていると、あちこちから他の車が集まってきた。日本人の団体も多数。混んできたのでその場を離れる。
 チータを探して茂みの中をどんどん走っていく。
 フセインのドライビングはすごい。道無き道を上手に穴ぼこを避けスタックすることなく運転しながら、時には難しい政治の議論など戦わせたりしつつ、何百メートルも離れた茂みの中でチラッと動いた動物の耳など見つけてしまう。プロフェッショナルを感じる瞬間だ。
 またフセインが何かを見つけた。車を飛ばして近づいて見ると、またしてもライオン。雌三頭と子ライオン五頭。今日一日で合計三十頭。まったく『ライオンの日』だ。
 そりゃライオンも好きだけど、やっぱり他の大きなネコも見たいよー。しかし無常にも時は過ぎ夕暮れがせまる。おまけに雨まで降り出した。
 ロッジへ戻る途中、イビスという白黒の水鳥数百羽の群れを見る。みんな同じ方向を向いてうつむいて雨に打たれている。まるで弔問の列を作っているように見える。

 十八時半、ロッジ到着。
 ロビーにはまだ夕方のお茶の用意がしてあったので、みんなで揃ってお茶を飲む。これで終わりという淋しい気分がみんなの間に漂っている。
 二十時から夕食。
 今夜の宿泊客はなぜかアジア、アフリカ系が多く、ヨーロッパ人の方が少ないくらいだ。ハルピンから来たらしい中国人十人ほどの団体もいた。英語を話す人が一人いるだけの団体で、ホテルスタッフとの意志の疎通がたいへんそうである。食事の時に大人でもやたらと牛乳を飲んでいるので、ヨーロッパ人たちは奇異な視線を送っていた。食事のレベルが昨夜より落ちたように感じるのは、気のせいだろうか。
 夕食のテーブルで、ミーケとギドの結婚のいきさつを聞いた。ギドはミーケの高校時代の先生だったそうだ。卒業後はまったく会うこともなかったが、ギドの最初の奥さんがミーケの友人だったため、数年前に再会する。その時ギドの奥さんは病気で、すでに自分がもう長くないことを知っていた。一方そのころのミーケは、結婚してはいたが生活はうまく行っていなかった。たぶんギドの奥さんは、ギドとミーケを引きあわせたかったのだろう。その後奥さんは亡くなり、ほぼ同じ時期にミーケは夫と正式に離婚した。心に傷をもつ二人が自然に寄り添いあって今に至っているのだった。
 ギドは今でも死んだ奥さんを忘れることはできないけれど、こうして一緒に生活する人がいることは素晴らしいと言っていた。今までも一人で世界中を旅してきたギドだが、これからはミーケと二人で行きたいところがまだまだあると話した。なんともしみじみした気分の夜であった。
 食事の後、昨日のジェネットキャットがかわいかったのでまた餌付けショーに行ってみることにした。
 しかし今夜やってきたのはまたしてもハイエナと、ネコはネコでも家猫が二匹。家猫が餌を食べているのを見ていてもしかたないので(家に帰ればいやでも毎日見られる!)、部屋に戻り寝る。
 明日は一日かがりでモンバサへ移動だ。夜にはチャーレ・アイランドに帰るのだと思うと、ラシッドやクラウスたちの顔が思い浮かび、心が弾んだ。

         <その8に続く→>

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