何があってもアクナマタータ<アフリカ旅行記>~スマートフォンのない時代に人はどうやって旅をしたのか その8
どんな旅もいつかは終わる。
でも心のどこかにひっそり刻まれたものごとは、ずっと静かに続いていくのかもしれない。
長々しい旅行記に最後までおつきあいくださったみなさま、ありがとうございました。
〈目 次〉
はじめに
一 アフリカに行こう!
二 怒涛の予防接種
三 タンザニアのビザを取る
四 果たしてアフリカへ行けるのか!?
五 孤島リゾート、チャーレ・アイランド
六 サファリへの戦い
七 とうとう、サファリだ!!
八 アンボセリ国立公園まで
九 マサイの村を訪ねて
十 レイク・ナクル国立公園まで
十一 マサイマラでチータを探す
十二 旅の終わり
十三 戦いの幕切れ
おしまいに
十二 旅の終わり
〈十二月十六日 木曜日〉
六時半、起床。パッキング。
昨夜まではまだなんとなく下痢気味だったが、今朝は回復したもよう。
七時朝食、冷めたソーセージやポテト、パンケーキなどが並んでいた。やはりヨーロッパ人客が減って手を抜いているのか。
七時四十五分、出発。
今日はナイロビまで車で移動し、ナイロビから飛行機でモンバサへ向かう予定である。
ナイロビに着いたら家に電話をしなければならないとフセインが言う。腎臓を患って寝込んでいる奥さんを残して家を出てきたのだが、昨日ホテルに無線連絡があり奥さんが至急連絡を取りたがっていると伝えられたそうだ。ホテルから電話すればよかろう、と思ってしまうのは、われわれの悪い癖だ。ホテルとはいえサファリのロッジでは電話のあるところはほとんどないのだ。
フセインには四人の幼い息子がいて、今回も出かける前に、奥さんが寝込んでいても困らないようにたくさんの食料を準備してきたらしい。奥さんにも病院に行くように言って出てきたとのこと。何か急を要することが持ちあがったのだろうか。家に病人のいる状態で、思うように連絡の取れないサファリの仕事にでるのは辛いだろう。しかしフセインはあまり深刻な顔を見せることなく、明るい話題で車中を盛り上げようとしている。
彼の、世界についての知識というのがどうも眉唾のものが多くて笑わせられる。中国の人口が多いのは、中国人は必ず三つ子とか四つ子で生まれてくるからだと学校で習ったと真顔で話す。そこからロシアやオーストラリアなど、いろいろな国の話になったが、国の名前は知っていても、どこにあるのかわからない国も多いというので、うちの夫が世界地図を書いて説明している。
十一時半、大渓谷を見下ろす展望台のところで休憩。ここにも、契約しているらしい土産物屋が並んでいた。ミネラルウォーターを、ロッジよりも高い値段で売りつけようとしている。
物売りの攻撃から逃れるのもかなり上手くなった。ひっそりと誰もこないところにたたずんでいたとき、ふと道端で皮ごと焼いているとうもろこしに目が止まった。とうもろこしに目がないわたしの心を見抜いたか、すかさず売り子がやってくる。始めは一本一ドルと言ってたが、交渉の末一本二十シリング(約三十円)で購入。小さくて粒も不ぞろいのとうもろこしであまり甘くもなかったが、考えてみるとホテル以外で物を買って食べたのはこれが初めてだった。
わたしがとうもろこしを食べているのを見て、食べ物に気を使っているようには見えない体格のミーケが「とうもろこしは脂肪分が多いから太るのよ」と言った。いや脂肪分でなくて糖質だろう、とわたしが考えていると、「そうか、それで腹持ちがいいんだ。とうもろこしを食べると、しばらくお腹が空かないからいいよね」
カロリーに気を使う必要はまったくなさそうな体型のフセインが妙に納得していた。彼にとってはカロリーや脂肪よりも満腹感が持続することの方が大事なことのようだ。
十二時半ごろ、ナイロビ近郊へ。今日は平日のせいか、ものすごい車と人の混乱状態である。この前通ったときは祝日だったので交通量が少なかったのだろう。
市街地に入って路上に花を売っている屋台を発見。アフリカで初めて見た花屋である。そこらにいくらでも野生の花があふれるところで、お金を出して花を買う人がいる。やはり都会なのだ。
十三時、昼食のためレストラン「カルニヴォア」へ。カルニヴォアとは『肉食動物』のことで、その名の通りいろいろな獣の肉を食べさせるので有名なレストランらしい。シュラスコ料理のレストランのように、いらないと言うまで次々にいろいろな肉が運ばれてくる。スペアリブ、チキン、ビーフ、ラム、ポーク、ビーフソーセージ、チキンレバーというごく普通のものから始まって、クロコダイル、ゼブラ、ダチョウも出た。個人的にはクロコダイルが油ののったチキンのようでおいしいと思ったが、スペアリブなどの普段から食べている肉のほうがやっぱり美味しい。
さすがに肉類だけ大量に食べるのは苦しく、つけあわせのサラダなどを食べてごまかしていたのだが、周りのベルギー人たちは本当に肉類ばかりひたすら食べ続けている。やっぱりこの人たちは肉食人種なのだなあ、とつくづく思う。
それにしても、ついさっきまで「かわいい」と言って見ていた動物たちを、今度は喜んで食べることに違和感はないのだろうか。日本人は、動き回る魚を見て「おいしそう」と思ったりする人種だけれど、ふだん食べない動物の肉となると抵抗がある人も多い。これがきっと極度の動物愛護精神溢れるイギリス人の団体だったら「私は野生動物の肉なんか食べません!」という客が続出するのではないか。そもそもツアーのなかに組み込まれないかもしれない。やはりこれは、『グルメの国』ベルギー人ならではの風景なのかもしれない。
肉類を食べ過ぎて苦しくなった夫は、一度トイレに行って食べたものを吐き出して席に戻ってきた。その後また口直しに野菜類を食べている。まったく、何をやってるんだか。まるで古代ローマ人の宴ではないか。デザートにアイスクリームが出る。もうサファリも終わりだからこれからは下痢しても平気、とミーケもアイスを食べている。
アフリカに来てから初めてエスプレッソを飲んだ。もちろん本場の濃さにはおよばないが、久々にきちんとしたコーヒーが飲めてうれしい。コーヒーと紅茶はケニアの名産品であるはずなのだが、ここまでどこで飲んでもどちらもいまひとつの味だったのだ。
十五時すぎ、フセインとアブドラが迎えに来る。フセインの奥さんは、病院に行ったらさらに詳しい検査を受けるために夫の許可をもらう必要があるということだったらしい。ケニアでは、病院の検査ひとつ受けるにも女性は夫の許可が必要なのだ。とにかく、一刻を争う状況ではなかったことに一同安心する。
それでもやはり少しでも早く家に帰りたいフセインは、これから八時間ほどの道のりを一人で運転して今夜中にモンバサの自宅へ戻るつもりだと言った。家に着くのは真夜中を過ぎるだろう。
十六時ナイロビ空港着。フセインに七日間二人分のチップとして二千シリング(約二千八百円)を渡す。きちんと給料をもらっているはずだからチップは不要と思っていたのだが、彼らの実情は、仕事の無いときは給料ももらえず、客から受け取ったチップでなんとか生活をたてている状態らしい。フセインには本当によくしてもらったし、家の事情も大変だし、快く相場より少し多めのチップを渡した。他の人たちもそれぞれにチップを渡している。ベルギー人、特にフレミッシュは、よほどのことがないかぎりチップを払わないという印象があるけれど、おそらくサファリドライバーにはチップを渡すべしと指示をうけているのだろう。
チップについてはいつも考えさせられる。わたしたち日本人の感覚からすると、働いている人はその仕事に対してきちんと給料をもらっているはずなのだから、基本的にはチップは不要だと思うのだ。とても重たい荷物を運んでもらったとか、その人の仕事の範疇を超える何か特別なことを頼んだときだけ渡せばいいと思っている。
しかしここアフリカでは、みんなチップのために働いているという印象を受ける。泊まったロッジのなかには、一泊目にチップを置かなかったら翌日はルームメイクにこなかったところや、「わたしを助けてください」とチップを要求する手紙が置かれていたところがある。給料をもらっている立場で当然の仕事をしないのは怠慢ではないかと考えるのは、やはり先進国の理屈なのだろうか。
十七時発のケニアエアウェイズでモンバサへ。搭乗待ち時間に空港のロビーでビール。トゥスカーの高級品モルト・ラガーというのを初めて飲む。こくのあるずっしりとしたビールだ。ロッジで飲む普通のビールよりずっと安い。きっとこれでも空港価格で、地元の人にとっては普通より高い値段なのだろうけれど。ロッジでは本当に何もかもが外国人観光客向けなのだろう。
十八時定刻モンバサ到着。久々のモンバサの、ぐったりするような蒸し暑さに包まれる。
ネッカーマンのバスに乗ってホテルへ。昼間のモンバサを初めて見る。ナイロビに負けないほど活気があふれていて驚いた。
フェリー乗り場では物売りも来た。乗り場の横にはたくさんの屋台が店を並べていて、何か食べたり飲んだりしている人も多い。ちょうど仕事帰りの人々の乗る時刻だったようで、フェリー乗り場は人で溢れている。
三隻ほど待ってようやく乗船。フェリーの上もごったがえして、ラッシュアワーの新宿駅のようだ。人の数に圧倒される。
途中、ネプチューン・パラダイスで、ミーケとギドと別れる。アドレスを交換し、手紙を書くことを約束する。
その後は一路チャーレの渡し場へと走る。今日のドライバーの運転はすさまじい。アグレッシブな運転で名高いナポリ人も真っ青という飛ばしぶりだ。通常三十分から四十分かかる道のりを、なんと十五分で来てしまった。
二十時、チャーレ着。船着場にいるスタッフも船頭さんも、ホテルスタッフの全員がわたしたちを覚えていて、「サファリはどうだった?」と聞いてくる。なんだか我が家に帰ってきたような気分だ。
サファリ前までいたのと同じ部屋に入る。ホテルはだいぶ客が減ったようだ。荷物を置いてシャワーをして食堂へ。クラウスたちがちょうど食事していて、大歓迎にあう。こちらもしゃべりたいことがいっぱいあって、大騒ぎしながら夕食。ラシッドもちょっと顔を出して、「バーにいるから後で来てね」と言って去っていった。
食後、クラウスとオーストリッドと一緒にラシッドの待つバーに行く。しばらくサファリの話をした。
クラウスたちが引き上げた後、ラシッドからあの二人と断絶していることを聞かされる。例の格安だったマリブ・タクシーが急に値上げしたことがきっかけで、二人に頼まれてタクシーを呼んだラシッドとの間に小さないざこざがあったらしい。ほんのささいなことに思えるが、今ではもう、まったく挨拶も交わさない状態になってしまったのだという。
これはつくづく悲しいニュースだった。長い旅路を終えてやっと心温まるところへたどり着いたというほんわかした気分に、冷たい水をかぶせられたような気がした。もう楽しかった旅は終わってしまったのだ、と感じた。
二十三時就寝。ベッドに入り、そろそろフセインは自宅に着く頃だろうかと考える。無事に家までたどりつけますように、奥さんの病気が大事にいたりませんように、四人の子どもたちも淋しい思いをすることなく幸せに生活できますように。
〈十二月十七日 金曜日〉
サファリの間、毎日早起きだったので、今日はゆっくり寝ていようと思ったのだが、八時前には目が覚める。朝食。やっぱりパンケーキはここのが一番だ。
今日はとにかく休養にあてることに決めた。テラスのベッドでごろごろして、しばらく読書。
十一時ごろ、ダイビングセンターへ。サファリに行く前にクレジットカードで済ませておいたダイビングの支払いに問題があったと言うのだ。
サファリの間もすべてこのカードで支払いを済ませているし何も問題はないはずだからと伝えて、もう一度無線で本土のオフィスに連絡を入れてもらう。オフィスから電話でクレジットカードの照会をしてもらって、今度は無事OKがでた。
電話回線が不安定なケニアでは、クレジットカードの使用にも時々トラブルがあるようだ。携帯電話が普及し、どこにいても電話ができるのがあたり前という環境で生活している人間にとって、ケニアの電話の普及率と回線状況の悪さというのが、今回の旅で一番驚いたことかもしれない。
昼食後、読書、昼寝。
十五時、透明度がいい干潮時を待ってシュノーケリングへ。今日は、ビーチの沖のチャネルまで行ってみた。オドリハゼ、ミナミハコフグの幼魚、ツユベラの幼魚、カンムリベラの幼魚。幼魚に目がないわたしは大いに楽しんだ。
その後はテラスでお茶をしたり、読書したり、のんびりと過ごす。夕食前バーでちょっと飲む。たまにはいいが、こういうのんびりとした生活は一日で飽きてしまう。こんな生活を四週間も続けられるクラウスたちドイツ人は、本当に退屈に強い人種なんだなあ、と思う。
夕食後、すぐに寝る。二十二時。それでも四時間も寝られない。明日の出発は三時前だ。
〈十二月十八日 土曜日〉
二時起床、パッキングをしているとポーターが荷物を取りに来る。飲み物の支払いを済ませ、朝食。フルーツとジュース、お茶。二時四十五分、トラクターにてチャーレ発。
三時過ぎ、待っていたネッカーマンのバスに乗り出発。途中ホテル三箇所に立ち寄り、同じ飛行機でドイツに帰る人たちを拾っていく。
五時半、モンバサ空港着。しかし飛行機遅れの表示出ている。とりあえずチェックインを済ませてから情報を得る。七時十五分出発予定の便だったが、その飛行機がまだ到着していないらしい。悪天候でドイツからの出発がかなり遅れたという。
出発は十一時十五分になる予定だと告げられた。なんのための二時起きだったのか。
ドリンク無料券をもらって待合ロビーへ。
出国カウンターで、『出入国カード』がないことを指摘される。入国するときにもらっていなければいけないものだったらしい。入国したとき、乗り換えの時間がぎりぎりで大慌てだったわたしたちは、その手続きを飛ばしてしまっていたようだ。入国カードの提出もしておらず当然出国カードも受け取っていなかったというわけだ。
係官に事情を説明すると、特にとがめられることもなく、この場で出国カードに記入して提出すればいいことになった。うーむ、提出してない入国カードのほうはどうなるのだろうか? 入国せずに出国だけしたことにならないのだろうか?? 以前、出入国の手続きの不備が元でグアムのトランジットでひどい目にあったことがある。
でもまあ、ケニアならどうにかなるような気がした。アクナマタータ、ね。
ロビーで、来るときに一緒だったイタリア女性と会った。
「私たちって本当に今回、飛行機運が悪いわね」
と苦笑いをかわす。
ベンチで居眠りしながら、飛行機が来るのを待った。
十時すぎ、待っていたコンドル便がようやく到着。ロビーにどっと拍手が沸き起こる。
この先フランクフルトでデュセルドルフ行きの飛行機に乗り換えなければならないので、ここでまた到着が遅れたらどうなるだろうと心配していたが、これ以降特に問題もなく、夜十時過ぎ、無事我が家へとたどり着くことができた。長い一日だった。
ところが自宅までの道中、あちこち痒くてたまらない、と夫が言い出した。しばらくの間チャーレに預けておいた長ズボンにダニがついていたようだ。
家の中に持ち込んだら大変と、夫は玄関先で服を脱ぎ始めた。その間にわたしは家のなかから大きなビニール袋を取ってくる。脱いだ服を袋にいれきっちり口を縛って密封する。ここにいたってもまだ、あたふたと駆けずり回るわれわれだった。
十三 戦いの幕切れ
いろいろあったアフリカ旅行だったが、なんとか無事にドイツへ帰ることができた。心配していたマラリアの予防薬も、ほとんど副作用もなく飲み終えることができた。
しかしまだこの旅行には、戦いが残っている。『タンザニア・サファリ』に行けなかったために生じた金銭的損害を旅行会社に賠償してもらうことだ。現地で旅行代理店のスタッフに書いてもらったクレーム・レターというのに、わたしたちが実際に被った被害金額を具体的に書き記した請求書を添えて郵送すればいいらしい。
十二月二十九日付でネッカーマンへクレーム・レターを送った。こちらの要求を伝える手紙も添える。もちろんドイツ語では無理なので英語で書いた。
<期待していたケニア・タンザニア旅行だったが、出発便のトラブルと貴社現地スタッフのひどい対応のせいで、とても満足のいかない結果に終ってしまった。フライトのトラブルの詳細については、クレーム・レターに書いてある通り。わたしたちは出発便にトラブルが発生した段階で、申し込んでいた『タンザニア・サファリツアー』には間に合わないことがわかったので、デュッセルドルフの貴社オフィスに確認の電話を入れた。もしサファリツアーに参加できないのなら、この旅行をキャンセルまたは延期したいと思ったからだ。しかし電話に出た貴社スタッフが「現地のスタッフが必ずサファリツアーに追いつけるように手配するから大丈夫です。翌日の便でとりあえずモンバサに飛んでください」と言ったので、一日遅れでモンバサに向かった。しかしモンバサに着いてからわたしたちを待っていた対応は、まったくひどいものであった。・・・・・・(以下タンザニアではなく、ケニアのサファリツアーに参加できるまでの顛末を要約して記載、特に現地スタッフの対応の悪さについて詳しく記した。)
最終的にはなんとかベルギーの会社のケニアのサファリに参加することができたが、このツアーは明らかに、当初申し込んでいた『タンザニア・サファリ』よりも安いものであったので、その差額を返済してほしい。またタンザニアに行くためにわたしたちが払った費用(予防注射、ビザ)についても返済してほしい。詳細は以下の通り。
サファリ費用の差額 499.00マルク
到着遅れの補償金 60.00マルク
(到着が遅れた他の人に対して一律に貴社が支払っている額)
タンザニアのビザ 40.00マルク
黄熱病の予防接種 59.50マルク
----------------------------------------------------------
総額(一人あたり) 658.50マルク
もちろん、現地到着が遅れたのはルフトハンザの飛行機のトラブルによるものであるが、我々が貴社と結んだ旅行契約は、タンザニアのサファリに行くものであり、それは実現されなかった。この件については、然るべき弁償がなされるべきである。速やかに貴社側の手続きを進めて欲しい。 以上 >
本当のことを言えば、忙しい最中に半日使ってビザを取りに行った日の日当やら、ケニアで担当者と会うために使ったタクシー代、精神的に被った被害の慰謝料なども請求したいところだったが、これ以上のややこしいトラブルも避けたかったので、「公明正大になんの疑いも無くこれだけは払ってもらって当然」と考えられる費用だけを書いた。
これに対して、年明けすぐの一月五日付で、ネッカーマンからドイツ語で書簡が届いた。「あなたの手紙は受け取った。この件につき検討するので四週間ほど待って欲しい」と書いてある。
まあまあの対応である。「こんなことになんで四週間もかかるの?」と日本的な反応をしてはいけない。ここはドイツだ。なんでも時間がかかるのだ。
それから四週間が過ぎた。ネッカーマンからは何の連絡も無い。まあ、予測していたことである。
念のためあとしばらく様子をみよう、と思っているうち、六週間が過ぎた。やはりもう催促するしかない。ヨーロッパではよくあることだ。
二月二十一日付で、手紙を送る。
<約束の四週間はとっくに過ぎましたが、まだなんのお返事もいただいていません。どういう状況なのか、教えてくださいませんか?>
その催促の効果があったのか、それから一週間ほどしてネッカーマンから手紙が届いた。またしてもドイツ語である。苦労して辞書をひきつつ読解する。
<あなたが当社の提供した旅行に満足していただけなかったのは、非常に残念なことである。現地ではあれ以上のことはできなかったことを理解してほしい。
しかし当社はお客様の不満に対してはできる限りの対応をさせていただいている。この件について貴殿の請求に基づき、六百六十マルクの賠償をすることにした。小切手は別便にて郵送する。
これは私たちができる全てであり、これ以上のことはできない。次回の旅行の際には、絶対満足をいただけるよう努力する。>
なんとか賠償は受けられるようだ。六百六十マルクというのは、ほぼこちらが要求した金額である、よしよし。と思ったが、どうも「全額で六百六十マルク」と書いてあるのが気にかかる。こちらの要求したのは「一人あたり約六百六十マルク」だったはずである。
念のためドイツ語の先生に手紙を見せて確認したが、どこにも「一人あたり」という記述はなく「トータルで六百六十マルク」と書いてある、という。いまひとつ納得いかない気持でいると、三日後には約束通り小切手が送られてきた。今回はすばやい対応である。
急いで開けて見たが、わずかな期待もむなしく小切手の額面は六百六十マルクだった。
手紙が同封されている。
<先日のお知らせから、貴殿より何も新たな申し立てがなかったので、約束通りの金額を賠償させていただきます。今後は、特に新たな証拠が提示されない限り、一切の交渉には応じません。>
という内容だった。なるほど対応が早いわけである。
ひょっとしたら手紙に書いておいた「一人あたり」という箇所を見落としているのかもしれないと思い、すぐに以下のような手紙を送った。
<六百六十マルクの小切手と手紙を受け取りました。しかし私たちの要求金額は一人あたり六百六十マルクだったはずです。この旅行は二名で申し込んでいますので、二名分の金額を返済してもらう必要があります。
もしこれが二名分に対する返済金額だったとしたら、どうしてこういう金額になるのか、説明してください。>
それから一週間ほどして、ネッカーマンから返事が届いた。当然ながらドイツ語である。
<あなたからの手紙を読んだ。先日書いたように、新たな証拠物が何も無い限り、これ以上の交渉には応じない。>
どうしてあの金額になったのかという説明は一切されていない。
考えれば考えるほどくやしい。念のため、再びドイツ語の先生に手紙を見せて相談してみる。だがこれ以上の交渉をしようと思えば弁護士を立てるしかないようだ。そこまでして六百六十マルクを手に入れる価値があるだろうか。費用もかかるしエネルギーの無駄のような気がする。
非常に割り切れない思いは残るが、もうここであきらめることにした。お金のことにいつまでもこだわっていたら、旅行自体の印象がどんどん悪くなってしまいそうだ。
旅行会社の対応には不満の残る幕切れであったが、旅自体はたった二週間とは思えないほど濃密なものだった。
大変なこともいろいろあったけれど、終ってみれば、だからこそ得られたものも多かったように思う。
出かける前は、ただ野生動物がたくさんいる大いなる大地を見たいというだけで、アフリカの文化や歴史について知識も興味も無かった。ほんとうに『遠い国』だったのである。
実際に行ってみると、「野生生物の宝庫、豊かな自然、大いなる大地」というイメージは、覆されたとは言わないが、かなり違った印象を受けた。いままで潜りに行ったいろいろな島と比べると、アフリカの自然は「豊か」というよりは「毟り取られて息も絶え絶え。なんとかかろうじて残された自然」という印象だ。人間が生きるのに精一杯で、その為に、野生生物を含む自然がどんどん搾取されているというのが、現状ではないだろうか。
では、その人間社会の貧しさの元凶はなんなのか。ヨーロッパ人に搾取されつづけてきた歴史なのだろうか。未だに続いている部族対立なのだろうか。社会制度のゆがみなのだろうか。それとも不安定な天候に左右される生活のせいなのだろうか。きっとすべてのことが複雑に絡み合っていて、簡単には語れないのかもしれない。
この地域について、もっともっと深く知りたいと思った。
帰ってきてからは、アフリカに関するニュースがとても身近なもののように感じられ、注意してみるようになった。モザンビークの大洪水のニュースを聞けば、無理な土地開発が被害を増大させたのではないかと思うし、ケニアのバスの衝突事故で定員をはるかに超える死傷者が出たというニュースを聞けば、あの『絶対満員にならないケニア・バス』を思い出し、やはりそういうことも起こるだろうなあと納得する。
ほんの少しだが、自分の中でアフリカというところが『はるか遠くの夢の大地』ではなくなっていることを感じる。そこで生きている人たちに、思いを馳せられるようになった気がする。
これを機会にアフリカについて勉強したい、という気持ちが高まった。さっそく、アフリカの歴史を教えてくれるメールマガジンを購読したりしている。でもやはり薄っぺらなにわか勉強では、アフリカが抱えている問題を理解することは難しいだろうとも思う。
アフリカについてもっといろいろな本など読んでみたい、と思っていた矢先、たまたま手に入れた『猫たちの隠された生活』(エリザベス・M・トーマス著・木村博江訳)という本がとてもよかった。ライオンやチータという野生のネコ族について詳しく書かれていて、彼らと人間との関わり方、なぜその数が減ってきているのかという背景に、アフリカが抱えている問題の一端が表現されている。歴史書を読むよりもこういう方向からのアプローチの方がやはり自分には向いているかもしれないと思った。
こんなふうに少しずつ形を変えて、わたしのアフリカの旅はこれからも続いて行くのだろう。
おわりに(2023年の自分がこの旅の記録をふりかえって)
二十数年前の旅行記をあらためて読み返してみると、この間に大きく変わったのは通信技術分野だけじゃなかったことに気づく。
ドイツの通貨はユーロではなくマルクだった。EUという枠組が今のような形になったのはずっと後で、当時はまだヨーロッパ域内でも国境をまたぐ移動にはパスポートが必要だった。
世界経済の状況も大きく変わっている。今や世界中どこに行っても観光客のなかで一番力を持っているのは中国の人たちだろう。日本の経済力はずいぶん見劣りするようになった。ヨーロッパの国々のなかにも、かつてのような勢いのない国もある。
アフリカの国々だって大きく変わっているはずだ。データをみてみると、この二十年でアフリカ経済は驚異的な飛躍を遂げている。そこにはやはり中国が大いに関わっているらしい。携帯電話の普及率も九十八%を超えたという。今やマサイの人たちだってスマートフォンを持っているに違いない。
しかしその一方で、アフリカ大陸での干ばつや飢饉、政治不安、内戦などのニュースは、相変わらずしばしば聞こえてくる。気候変動の影響で野生動物たちの生きる環境もずいぶん変わったのではないか。
現状は想像するしかない。この旅の後わたしがアフリカ大陸に足を踏み入れたのは、十年ほど前、モロッコを旅したのが最後だ。
ここ数年は新しい感染症のパンデミックのせいで海外はおろか国内でもなかなか旅行がしづらい状況が続いていた。ワクチンをめぐっては様々な意見が出たけれど、この旅行にいくためにたくさんの予防接種を受けて自分が体験したこと考えたことが今も自分のなかでは基準となっているんだなと、あらためて感じた。
二〇二三年、残念ながらわたしのなかでは、アフリカはまた『遠い国』になりつつある。
ネットを使って情報は簡単に手に入る時代にはなったけれど、やはり本当のことは自分の体を通してしかわからないのだというのは、いくつもの旅を繰り返してきて学んだことだ。
今、昔の旅を振り返ってみて、あのころと何がどう変わっているのか、また何が変わっていないのか、もう一度自分の目で見て肌で感じてみたいと思った。でもできれば、トラブルや苦難はほどほどでお願いしたい。
<おしまい>
<←その7>何があってもアクナマタータ<アフリカ旅行記>~スマートフォンのない時代に人はどうやって旅をしたのか その7|Rock'n'文学 (note.com)
<最初から読む→>何があってもアクナマタータ<アフリカ旅行記>~スマートフォンのない時代に人はどうやって旅をしたのか その1|Rock'n'文学 (note.com)
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