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教育の正当性

 教育はすべての人が経験したことがある「共有可能なもの」である。
 すべての人がそれなりに関心を持っているといっても過言ではない。しかし、教育には絶対的な正解などない。教育には多くの教育思想があるだけである。どんな教育方法学も教育心理学も全て教育思想に還元されてしまう。教育学というのは結局どんな考え(最終到達点)に基づいて実行し、どんな教育的成果を得られるかという問題を研究している。教育方法学ではPDCAサイクルに則った教育実践がされるべきだという理論が敷衍している。Plan(目標・最終到達点)があり、Do(実行)Check(点検、軌道修正)Action(再実行)と繰り返すだけである。現場の教員はこの教育ベルトコンベア(人間性を無視した単純労働の喩えとしても使われるようになった。)の実行者にすぎない。こうなると教育の良し悪しはPlanに依拠することになる。すべての教育はそのPlanを目指して行われるのである。そのDoはPlanのためにあるのである。教師が厳しく指導することやブラック校則で生徒を抑圧するのも体罰をするのもすべてPlanのためなのである。現行の教育界はすのDoのあり方を問題視したり改善したりするが、それは付け焼刃の対応にすぎない。教育ベルトコンベアの作業内容を変更したところで出来上がる製品は変わらない。Planの再構築がなされることはほとんど無い。これが教育の機能不全・時代錯誤を産んでいる。そして時代にあった教育をと教育改革を試みたところで、機能しない。それはなぜか。それは社会の変化と実社会と学校との乖離が原因である。産業界が求める人材と学校的優良人材との乖離。産業界が求める人材と現実の産業界の人材の乖離。現実の産業界の人材と学校的優良人材の乖離。すべてが噛み合っていないのである。

 昨今エビデンスに基づいた教育などと言われているが、エビデンスとは訳すると根拠であり、こういう教育をするにはこういう理由があるからだという言い訳にすぎない。数学を勉強すれば、論理的思考を習得できる。これをすればこういう効果がある。だからこれは教育する意味がある。といったその教育の正当性を主張し、立場を守るためにある程度のものである。生徒はよく英語なんて将来使わないから勉強しないとか数学なんか実際の生活で使うことないから勉強しないと勉強しないことを正当化し主張することがある。これに対して教師であればそれなりの理由を説明しうる回答を持っているだろう。しかし、どんな回答をしたところで生徒の主張はある意味ではその通りである。英語なんか将来使わないと言っている勉強しなかった者は英語が使えない訳だから英語を使わずに生きていくことしかできないのである。数学がわからない者に数学が何に役立っているかなど分かる訳がないからだ。そしてそもそも英語や数学ができなければ生きていけないということはあり得ない。生徒の主張は現実なのだ。

 学校教育というものは無くても生きる上で差し支えばないのである。それでも学校教育の必要性や教育効果を主張しない限り、学校という場を守れないのである。私は従来のいわいる「学校」は不要だと考える。その理由は学校教育など受けなくても生きていけるからである。生きるためだけなら教育なんか要らないのである。教育によって何か知識や技能を身につけていようが教育を受けずに何もできなくたって人は皆動物的に生きる力があり、身体活動を機能させることができる。呼吸するができる。身体活動を維持するために栄養摂取が必要なら、栄養くらい地球上、あらゆる場所にありそれを頂けばいいのである。極論ではあるが生きていくことは可能である。ただ本能的に生命を維持するということである。つい数千年前はそれで良かったのであるが、現代社会においては生きているとは言えない。人類の進化の歴史の中で社会的動物としてポリス的動物であると自覚した時から人はもう人として人間らしく生きていくというアイデンティティーを保持するために頭を使い、社会を形成し、身分を作り、法律を作り、意味のわからないしきたりを作り、そうした人間独自の生き方を確立していった。その生き方に沿った生き方以外はたとえ生物的に生きていようと社会的に生きていないのである。そして社会的に生きていくために広義の教育は誕生した。つまり教育する必要ができたから教育が誕生したのである。

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