日本の教育問題


 2000年以降、社会学、教育社会学の領域を中心に、格差社会と教育の危機をめぐる問題に焦点が当てられている。特に教育が、個人主義、市場化、歪んだ自由主義、そして、公教育への信頼の揺らぎといったことも論じられる。かつての日本社会は、終身雇用、年功序列的な雇用形態による男性労働者と、調整可能なパートタイムの女性労働の組み合わせを前提としていた。それに対して、グローバル化はより柔軟な労働市場をもたらした。グローバルな競争の激化は結果的に雇用の縮小に伴う社会的な不安定を生み出しいった。雇用の不安定さ非正規雇用や契約的雇用の増加は、女性労働ばかりでなく、男性の若年層世代が直面する問題となっている。(僕も直面しております)それゆえ、人々はリスク回避的意思決定を行おうとする。たとえば、結婚して子どもを持つことは「熟考」を重ね「熟考」したうえで選択するようになった。さらにいえば、子どもを持った後の、教育負担は重い。経済的負担に子どもの教育に対する親の責任の重さは特に強調される。これは育児負担問題と少子化傾向と結びつけられる。教育はより良い社会の形成に重要な役割を果たすものである。最近の教育問題(子ども虐待、いじめ、若年層の情緒的不安定、不登校)は見過ごせない。教育問題のほとんどは社会的課題である。社会全体に関わる構造的変化や困難を直視し、教育を見直す必要がある。
 日本の教育問題を語るときよく言われるのが「教育格差」だ。そもそも「格差」とは経済格差(所得格差)から派生し教育格差や結婚格差が生じると考えられている。格差があってはならないと考え方は、近代の「平等」の概念に基づいている。近代の「平等」は同等の努力をすれば同等の成果が挙げられ、同等の報酬が与えられるという観念だろう。こうした「平等」の観念が前提にされているから、「格差」を「理不尽」と意識する。「格差」がどんなリスク《同胞意識の衰退。凶悪犯罪の増加》をはらんでいようが、どんな可能性《社会の活性化、努力の鼓舞宣揚》を含んでいようが、いずれにしても格差はあってはならないという考えは一般である。そして、その「格差」は教育にも派生する。家庭の経済資本、文化資本は子どもの学力や学歴に大きく影響を与えるとされている。
 次に問題とされているのが教育の私事化と「自己」の肥大化という問題だ。現代日本の教育政策は充分な公的財政支援を得ていない。OECDの報告書によると2013年の日本のGDPに占める教育機関への公的支出の割合は3.2%である。これは比較可能な33カ国の中で32位である。最も高いのはノルウェーで⒍2%、次がデンマークの⒍1%。イギリス5.2%、アメリカ4.2%である。こうした教育への公的支出の少なさが暗示していることは、教育をなかば私事と見なし、そして日本社会にそうした考えた方広がっているということだろう。1980年代以降、「ポストモダン」の風潮とともに、また臨時教育審議会が提案した「教育の自由化」すなわち「教育の市場化」が進行するとともに、そうした傾向は加速されていった。なるほど、現在も日本の学校教育は、概ね公的資金で運営されているが、他のOECD加盟国に比べるなら、日本の教育機関に対する支出の割合は、私費負担でまかなわれている。初等教育段階から高等教育段階までの教育支出に占める私費負担の割合は28%であるが、OECD平均は16%である。たしかに、教育主体(学校)に対しては、法的規制による管理が行われているが、学習主体(個人)が、どんな学習支援を受けて、どんな規模でどんな費用をかけて行うかは、まったく私事であり、個人の自由である。そして「自己(エゴ)」の肥大化をもたらしたと考えられる。
 教育の私事化も自己の肥大化も社会構造変容が背景とした現象である。教育の私事化は、機能的秩序の相対的拡大によって公共性が阻害され、自己の肥大化は位階的秩序の相対的衰退によって人々の孤立化が帰結することだ。こうした社会構造の変化の中で、人と人の関係は「機能(利益、栄誉を生み出す働き権能)」という観点から価値付けられ、人を形容する言葉は、「能力」「資格」「学歴」「優劣」などになる。人の主要な価値は「有能性」「使えること。役に立つこと」になる。それは他者を感じなく者として見られなくなり、コミュニケーションは、事態を制御し、自己保全をし、自分の目的を実現するための手段に還元される。
 このように、有能性が人の価値の基準となるとともに、自己の肥大化は教育現場についていえば、一点刻みの合否判定の基準が当然のように設定され、それが規範化される。こうして規則随順、法令遵守への圧力は強まっていったのである。規則随順、法令遵守の圧力に耐える教育を受けた子ども達は、大人になったら学校から会社に場所を変え、規則随順するのである。こうした規則随順への傾きの最大の問題は、規則に従うことで規則を形骸化するというパラドクスを広めることである。規則に従うことは本来、高次の目的に向かうための手段である。高次の目的とは、人がよりよく生きようとすることである。簡単言えば、人々の「幸せ」である。つまり、すべての人々は自分の「幸せ」のために規則を守るのである。しかし、高次の目的(幸せ)が何かということは、どの規則にも法律にも記されていない。換言すれば、どんな規則や法律を守ったところで高次の目的は果たせず、結論的に何のための規則や法律かを人々は根本的に理解し難いのである。


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