見出し画像

忘れようにも来年あたりまた会うであろう先生

僕は気まぐれにフリーランス絡みの記事やら、本業のコピーライター絡みの記事をたまに書く程度のごくライトなnoteユーザーだ。こういったハッシュタグイベント(で、あってる?)に参加したことなんてない。でも、たまたまTwitterでみかけた「#忘れられない先生」の募集を見て、否応なしに思い出してしまったことがあって、否応なしに筆を執ることにした。

「モリタくん、なんで授業に出なかったんですか?」
「ちょっと、その……アレで……」
「わかりました。アレですね」

その場で出席簿に「アレ」と記入してみせ、にやりと笑って僕を沈黙させる。高校時代の恩師、U先生との出会いは、どういうわけか中学1年の時だった。僕が通っていたのは東京の多摩エリアにある中高一貫校。中学の歴史の教師が足らなかったらしく、高校の日本史担当であるU先生が借り出されたのだった。

中高一貫の私学校。基本的に当時は終身雇用で転勤もなく全体的にゆったりした教師陣の中にあって、U先生は中学1年生の僕から見ても明らかに異質だった。後に分かったことだけど、U先生はもともと有名な進学教育の会社の社員だったらしく、もっと遡れば、大学でかなり専門的な研究をしていた人でもあったらしい。要するにかなりのインテリであり、キャリアもある常識人だった。いや、常識人……だったのかはよくわからないが。

ただ賢いのではなく、切れ味がある。授業も面白い。週2コマくらいしかない中学の授業であっても、すぐさまクラス全員の名前と顔を覚え、敷地内で出くわしても声をかけてくる。そしてテストがクソ難しいオール記述式だったのも、逆に一部の生徒を燃えさせていた。

結局、中学でのU先生の授業は1年だけで終わってしまったけど、ずっと印象に残る先生だった。

再会は高校1年。U先生が僕の担任になった。これはなかなか嬉しかった。社会科で日本史を選択したのもU先生が担当だったからだ。U先生は授業もさることながらホームルームも面白かった。毎朝、新聞やニュース、読んだ本などから新ネタを持ってきて、木村太郎のようなコラムをかまして知的な笑いを巻き起こすのだ。

「みなさん、人間は、ストレスを感じると胃の中で黒い液体が流れるそうです」

ある朝、U先生はこんなことを語り出し、黒板に「黒い液体」と殴り書きしながら、今で言うところのアンガーマネージメントみたいな話をして、「では」と、教室を出て行った。その後、授業にやってきた別の教師が首をかしげながら「黒い液体」という文字を消していたのがめちゃくちゃ面白かった。

そんな「コラム」の中でも特に忘れ得ないのが、1年生から2年生への進級に伴うクラス替え直前のタイミングでぶちかまされた「公務員の異動」の話だった。

「ええ、みなさん、公務員わかりますか?そうです。市役所とか区役所で働いてる人たちですね。あの人たちは数年で部署が入れ替えになることがほとんどです。このとき、管理職は問題のある部下を連れて行く習わしがあるそうなんですよね。他の部署に迷惑がかからないように。ね?モトハシくん、ナイトウくん?」

最後に名前を呼ばれた2人はわかりやすい問題児だったので、本人たちは苦笑いし、他の生徒たちも爆笑していた。

で、結論から話すと、その後、卒業までU先生のクラスにいたのは、モトハシでもナイトウでもなく、僕だった。

まあ、今にしてみれば理由はなんとなくわかるのだ。モトハシはチャラ男タイプ、ナイトウはぼんやりしすぎタイプだったが、僕は校内で政治犯みたいな扱いを受けていた。学校指定のカバンが使いずらすぎるからと自由化の署名運動をやって300票集めてちょっとした騒動を起こしたり、新聞部の論説員として特定の教師の発言を揶揄する記事を書いたりしていたのだ(部員でもない僕を招聘して記事を自由に書かせたのはおそらく学生運動経験者だった別の先生なんだけど)。

大人になった今だからわかる。U先生はたぶん、ことあるごとに周囲からなにか言われていたはずだ。でも、僕は至ってのんきに過ごすことができていた。たぶん僕は、U先生に守られていたのだ。

そんなU先生の苦労などつゆ知らず、でも、僕にはU先生に対して果たしたい目標みたいなものがあった。それはいつかU先生の「コラム」のネタになること。U先生は時折、卒業生がこんなことを成し遂げた。こんな仕事をしている。という感じの「卒業生ネタ」を披露していた。漠然と、いつかは自分もU先生のネタになりたいと思っていたのだ。

あともうひとつ、U先生から受けた教えで、今の自分に直結しているのが独特の進路指導だ。あるとき、「夢=叶うかわからない大きなことと、希望=実現可能と思える仕事や生き方を書いてください」と言ったのだ。

当時の僕は、週2冊ペースで文庫本を読みふけるタイプの文芸部部長だったので、夢は作家、希望はライターか編集者、まあ、言葉で商売をすることを書いたと記憶している。

これがなぜだかずっと脳裏に引っかかっていて、気づけば雑誌編集者、ライターを経てコピーライターになり、言葉を生業にする会社をつくることになるのだから、不思議なものだ。

そして1997年に高校を無事卒業。変なプライドから付属大学への進学を拒否し1浪を経て98年に外部の美大に入学。U先生とは疎遠になっていった。

でも、僕はU先生のことを忘れてはいなかった。紆余曲折あって、僕はU先生に提出した通り、言葉を生業にするようになり、2014年に書籍を出版した。しかも、文章の書き方に関する本である。

担当編集の小橋川氏に献本先を問われたとき、15年以上連絡を取っていなかったU先生の名前を真っ先に思い出し、本を送った。その後、お礼のメールが来た。ただ、残念だったのはU先生はけっこう出世していて、役職持ちでもうクラス担任はしていなかった。「コラム」のネタにはなれなかったようだった。

で、つい最近、その学校の教員として働いている後輩からメールが来た。「モリタ先輩、お元気ですか?U教頭先生からの指名で、来年予定されている学校の100周年イベントへの出演か登壇を依頼したいとのことです」みたいなことが書かれていた。そりゃあ、引き受けますよね。

そんなこんなで13歳で出会った歴史の先生と、30年後、また相まみえる時が来るわけですよ。忘れようにも、忘れられない。というか、年内打ち合わせとかで会うことになるであろうU先生の話。これにて。

この記事が参加している募集

忘れられない先生

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?