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いつ死んでもいいように

これまでの日々なんかを弱拡大で振り返ってみたときに、あっという間だなあなどと思うことは多々あるが、
「あんなことがあった・こんなことがあった」と、強拡大で具体的に思い出そうとしてみると、あっという間などということはなく、むしろその一つ一つが途方に暮れるほどに長いものだったことのように感じる、というのはよくあることなのではないだろうか。

例えば、暇で暇でしかたがない一日単発バイトをした日なんかを思い出してみるといい。その経験がない場合は、部活動での厳しい練習メニューでもいい。例えば、30分走り続けるような。それもなければ退屈な教頭先生の話だ。

1分1秒が途方もなく長いものであったはずだ。これが強拡大にあたる。

しかし、そういったアルバイトや部活動に追われていた日々を思い返してみると、
「あっという間だったなあ」
などとつぶやく。そんな経験もあるはずだ。これが弱拡大。

正しいのはどちらなのだろう。あっという間なのか、長いものなのか。

ここでは、長いものとして話を進めさせてもらう。

腫瘍が良性か悪性か、Landolt環の穴が上なのか下なのか、道を歩いている女性がタイプかタイプでないか、私たちは多くのことに対し、弱拡大でアタリをつけ、強拡大で確定診断を下す。

それと同じだ。今回の場合はアタリが外れていたのだ。

特別な事情や急な不幸でもない限り、明日も1週間先も1カ月先も生きているに決まっている現代では、私たちは先を見すぎる傾向にある。

将来はきっと幸せな生活をと、今を耐え、自分を磨く。多くのものを犠牲にしては、勉学に励み、スキルを身に付け、どんどん自分の価値を高めていく。そうでもしないと将来が不安だからだ。

小学校では中学受験のために、中学校では高校受験のために、高校では大学受験のために、大学ではよい仕事に就けるように、社会人では老後のために、

今を犠牲にし、未来の自分に投資する。幸せを先延ばしにする。
そうすることで、より大きな幸せが待っていると信じている。

確かにそれは正しいことかもしれない。

しかし、「今死ぬ」となった場合に、悔いなく死ねるだろうか。

人はいつ死ぬかわからないとはよく言うが、本気になってそのように考えたときに、先ばかり見ていてもいいのだろうか。

だらしなく生きようというのではない。勉強が好きなら、していればいい。バイト中に隕石が降ってきても受け入れられるのなら、バイトすればいい。

その個人個人それぞれの価値観に合わせて、今なら死んでもいいやと思えるような瞬間を、時々でいいから感じられるような生き方をしたほうがいいんではないかと、最近は思うのである。

しかしほとんどの日本人が、放っておくとすぐに先を見てまた勤勉に自己投資し始める。

だから意識的にちょくちょくピークを作るのだ。
今なら死んでも後悔はないという瞬間を、
一生に一回ではなく、
1年に一回でもなく、
1カ月に一回でもなく、
1週間に一回くらい、なんなら1日に一回くらいの意識で、作ろうとして生きていくのだ。

いつ死んでもいいように、たまには今の自分に全振りして、幸せのピークを、もったいぶらずに味わおうではないか。


ゴソノギ__国立医学生の日常

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