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自意識過"小"

ダサい造語だとか言わないでほしい。小か少か迷った。

自意識というのは、非常にコントロールするのが難しい。
時には過剰に、また時には過小になる。人によって傾向はあるだろうが。

自意識過になると、駅前なんかを歩いている時、自分が周りからどう見えているかが気になりだす。周りなんて何とも思ってないよと友人から嘲笑されようとも、気になって仕方がない。頭では理解していても、気になって仕方ない。
きっと、心理の深層のところにその原因があるのだろう。本能とか、そういうレベルでの深さかもしれない。だからこそ、頭での理解など、通用しないのだと考えると、辻褄があう。

一方で、自意識過になると、周りのことは気にならなくなるのだが、それゆえに、自分のエネルギーみたいなものが必要なくなっていく。自分がどう思われていようが関係ないものだから、身なりや態度に気を遣わなくなってしまうこともあるかもしれない。ただ、生きやすい状態とも言える。


自意識過な状態というのは、常に窮屈だ。

どんな相手に対しても、良い恰好をしておかないと気が済まない。ちょっとでも自分の噂話が耳に入ると、過剰に反応し、いやな気持ちになる。その噂話が嘘であったり、拡大解釈されていたりすると、余計悲しくなる。自分はそんなじゃないよと、分からせたい気持ちになるが、複雑にこんがらがったこの社会では、そんなことできっこないと、途方に暮れる。日々無駄にエネルギーは割かれ、窮屈な状態。これが、自意識過剰だ。

「周りの意見なんか様々。あなたのある特徴を、いい所ととらえる人もいれば、悪い所ととらえる人もいる」
「そもそも周りなんかなんとも思ってない」

そんな窮屈な状況を抜け出すべく、こういった常套句を何度も何度も言い聞かせて、心理の深層まで届かせようと試みる。これがなかなか成功しない。窮屈な生活は続く。

しかし稀に、肩の荷が下りた感覚になり、過剰な状態から抜け出すことに成功することもある。すると、今度は徐々に過小な状態へと心が向かう。

大きな成功体験をして自信がついたとか、最愛の人ができたとか、田舎や海外に引っ越したとか、噂されているのではと思っていたことが実は何とも思われていなかったとか、そういったことでも自意識過剰から抜けだすことになるかもしれない。


自意識過な状態というのは、傲慢になりかねない。

過小な状態では、「周りの意見というのは様々であるから、ありのままの自分を好んでくれる人、互いに分かり合える人が数人、あるいはたった一人でも、いればいいよね」、という考えを抱く傾向にある。(という風に定義する。)
要は、不特定多数からの評価が気にならなくなるということだ。

この考え方は、非常に心が楽になる。過剰の時に味わっていた窮屈さから解き放たれる。そのため、割と仲のいい友人や、交際相手などと語らう際に、互いを癒すために上のセリフを言い合ったことがある人も少なくないのではないだろうか。

この状態であれば、分かり合える人に該当する人に対しては、いい関係を築ける。しかし、それ以外の外側の人間に対しては、雑でいいと考える。

よって、自意識過小な状態では、仲間と認める人間以外の人間に対して雑に、傲慢になりかねないのだ。

その過小な状態も、雑に扱ってしまった外側の人間たちからのプレッシャーに押しつぶされたり、自分に関する噂話を耳にしたり、あるいは、分かり合える人がいなくなってしまったりすると、自意識過剰に戻っていく。


こんな風にして、過剰から過小へ、過小から過剰へと、自意識は行ったり来たりする。時に数分、数時間単位で行ったり来たりする。

それぞれ私たちを守ってくれる要素も持ち合わせているが、やはりどちらも欠点が目立つ。

人間に生まれた以上、その両者と一生付き合わなくてはならないのだろう。

死ぬまで格好つけ(過剰)、時に人を嫌いになり(過小)、また時に嫌われることに恐怖を覚え(過剰)、すべて投げ出してたった一人を愛し(過小)たかと思えば振られて、交際時代のエピソードを身近な人間に言いふらされて周りがみんな敵に見え(過剰)、それを笑い飛ばしてくれる友人にすがり(過小)、、、

段々とストーリーが具体的になって止まらなくなりそうなのでこの辺りにしておくが(決して自分の話をしたわけではない)、まあ要は、人生っちゃあこんな感じで自意識に振り回されて大変だよねという話がしたかったのだ。


ゴソノギ__国立医学生の日常

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