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つなぐ つなげる つながる

手をつなぐ
手をつなげる
手がつながる

これ…表現次第では、シチュエーションが大きく違ってくる。

「手をつなぐ」

本来切り離れるものではないことが、何かしらの事情で離れている時にひと続きにするもの。
人の絆や家族関係みたいなものか。

「手をつなげる」

はじめは別々のところにあったが、ひと続きとなったほうが良いと意思決定したもの。
恋愛関係やチームづくりだったりみたいなものか。
ケンカの仲裁なんかもそうかもしれない。

「手がつながる」

これは自分の意思とは別に、切断されていた手が勝手につながっていくような、まあまあオカルト的な状況が頭に浮かぶ。
自分の言動によって無意識のうちに生じてく「事象の連鎖性」や「他者との関係性」みたいなものか。 
したがって、「つながる」という言葉には「手が」という表現が、まあまあ不自然なのかもしれない。


他動詞と自動詞

「つなぐ」と「つなげる」は他動詞。
他動詞は、必ず人(または動物)などが主語となる意志動詞で目的語が必要。助詞には「を」が入る。

「つながる」は自動詞。
自動詞は、物や事象などが、どうなったか言いたい時につかう。

なぜ他動詞と自動詞の話なのか。  

小学生の頃、決して高圧的でもなくどちらかというと和やかな雰囲気ではありながら、結局はいつも先生が満足する答えを言わないといけない日々が苦痛で仕方なかった。

あの日々を思い返せば、学びが自分にとって「意志動詞」ではなく、自分で目的語を据えることもできなかったからだ。

特に高学年になると、出される問題に対して、正しい答えだけを求められ、自分が納得できる答えの導き方のプロセスを探究する暇は与えてくれることはなかった。
とにかく「スピードと正確性であなたの未来がつくられる」という自動詞の感覚が、窮屈で仕方なかった。
ハッキリとそう命令されているわけではないが、感受性が高すぎたのか空気は感じ取っていた。


立候補ではないのに叱られる

「生活」をしていくということは、自分を「活」かして「生」きることじゃないか。
心豊かな生活者になるために、幸せになれることを学ぶために学校があるんじゃないのか。

小学生の頃、ボクは先生にはとてもメンドクサイ人だったらしい。
この問いに納得できる答えを言ってくれる教師には巡り合うことがなかった。

先日仕事の打ち合わせで「生活とは自分を活かして生きることでしょ?」と伝えたら、随分とメンドクサイ大人だと言われたがが、結局そうした部分はボクは全く成長していないかな…^^;

いずれにしても…

結局、義務教育の間は、学校の教育に何一つ納得がいかなかった。
学芸会で、学年全体で一つの劇をすることになった時、全ての配役が各クラスからの候補を出して学年全体でオーディションをする時のことは、もはやトラウマである。

「あなたの背格好はこの役に合いそうだから、あなたが立候補しなさい」
「へ?先生?…それって……立候補じゃないよね」
「どの配役も各クラスから一名は出ないといけない……いいから出なさい」

明らかに自分を活かしているとは思えない中で、クラスの誰かが生贄にならないといけない空気で、引き受けないと先生だけではなくクラスメイトから受ける「嫌だとは言えない」圧力に負けた。

オーデション当日、他のクラスに抜群の演技力の表現を見せつけられた後に、失笑を浴びるだけのあの時間帯は、まさに拷問そのものである。
案の定、演技力抜群の子にキャストが決まった後に、先生が言ってきた言葉は今でも忘れられない。
「君は、練習不足だね」

授業以外でも学校行事も含めて、こんな調子の毎日で、気づけば勉強は嫌いになっていった。
元々あった好奇心や探究心から、学ぶことは嫌いではなかった。

先生の言うとおりや学校システムに従っていれば「未来につながる」という……あの空気が嫌いになっていった。
クラスメイトとは、日頃はそれなりに友達ヅラはしていたが、その空気に違和感なく従順であることに、ある種の気持ち悪るいと感じていた。

自分で「未来をつなげる」ために学びたかっただけなんだ。
「君はどういう未来をつなげようとしたいのか」ということを語り合える友が欲しかっただけなんだ。

自分の未来が自動詞だなんて、真っ平ごめんだね。
自分の未来に「つなげる」のは、自分でありたいんだよね。


他動詞によって明確にする

おかげさまで、嘘のない自分で生きていくことを決めてからは、今目の前に起きていることは自動詞と他動詞のどちらなのかを冷静に受け止めるようになっていた。

自分を活かして生きる者が、生活者である。
生活者は、生産者でもあり消費者でもある。

改めてそういう表現をすると「何をあたりまえのことを」とはみんな言うが、ココめちゃくちゃ大事じゃないかな。

生産者(働き)も、消費者(暮らし)も、どちらも「自分らしさ」「を」「活かしている」かどうかで、幸せの感じ方が変わってくるからだ。

自分は(主語)自分らしさ(目的語)を(助詞)活かす(他動詞)

人に喜ばれる価値を創ることにやりがいを感じる生産者であり、何かしらの価値を提供してくれるありがたみを感じる消費者でもあるかどうかだ。
この場合も「感じる」は、自分から感じ取りに行っているので、「やりがい」や「ありがたみ」という目的語がある。


自動詞であることも受け入れる

一方で……

「働き」と「暮らし」のどちらも、自分の言動によって事象の連鎖性や他者の関係性で成り立つことでもあるため、自分の意図がどうであろうと、何かといろんなことにつながる(自動詞)ものである。

自分の意図通りに行かないことがどれほど嫌いな人でも、この自動詞は受け入れざるを得ない。
それに反して、無理に「仕事と家庭は分断して考えるべきでつなげてはいけない」という発想になること自体、必ず歪みが生じる。
「べきではない」といっても、自動詞として「つながる」んだから。

その歪みの象徴的なこととして「仕事は楽しむべきではなく、その楽しめなかった分は暮らしで贅沢をする」という……辛さの対価をお金で解決する習慣が身に染みてしまうことになる。

そういうことよりも、働きも暮らしも、自分を主語にして「何を(目的語+助詞)」を「自分の納得できる意図でどうする(他動詞)」にシフトすることで、自分の言動によって「未来をつなぐ」ことへ変えていくことの方が、がんばり方を間違えなくなる。

社会に自分を合わせて生きているうちは、目的語のない自動詞。
自分に合う社会をつくるのは他動詞。

価値づくりとは、編集作業に近いもので、何かと何かを組み合わせることであったり、古からあった良きあたりまえの事柄を元通りにすることだ。
納得できることをつなぐ。
美しいと思うことをつなげる。
慣れない文法解説で表現すると、こうなる。

とりあえず今は、がんばり方を間違えないために「心を動かす」ことで自分を活かして生きる生活者となる勧めみたいなことを、体系的に整えながら、初めての執筆本に挑んで、書き下ろし終えたところだ。

今は、構造を解りやすくするために会計の図解を用いて自ら編集するような段階に入っているが、他動詞と自動詞から気づかされることがあったので、ちょっと編集作業を一休みしてのアウトプット。

なお、初の執筆本(製本による同人誌感覚なので出版ではない)の仮タイトルは~自分を活かして生きる生活者のための「つながりのデザイン」にしていたが…

『Yeah Me!〜未来に期待したくなるジブンスイッチ~』

というタイトルが、今は最有力候補。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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