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楽器を捨てるという発想

僕は基本的に誰かを真っ向から100%否定するということをしません。来るもの拒まずというほど受け身でもありませんが、どんなことも人それぞれだと思っているので。

そうは言っても生理的に受け付けない事柄というのはあります。これは、良い悪いではなく相性の問題なので仕方ありません。交わらない関係性のことをよく「水と油」と言いますが、交わらないというだけで水と油の優劣を語ってるわけではないですよね。そんな感じ。


そんな、僕が水ならこれは油だろうという存在。
そのうちのひとつが「楽器を壊す / 捨てる」という行為です。

昔、サークルの部室で大掃除があって。その一環で、ロッカーに放置されていたギターを叩き壊しているメンバーがいました。ギターを破壊するというパフォーマンスは、自分の楽器だからこそ躊躇なくぶっ壊すことに美学があるので、壊れた誰のものかわからん楽器をぶっ壊すのは僕の目には単なる暴力として映りました。耐えられなくてその日は帰っちゃった。ちなみに大掃除をさぼったことは素直に謝りましたよ。

そこまでいくことは稀でも、壊れた楽器をどう扱うかという問題はあります。修理して使うなり売るなり飾っておくなり、いろいろあるでしょうが、そこに「捨てる」という選択肢は僕の場合、なくて。ギターはどこまで行ってもあくまでも道具だっていうところは弁えておかないといけないんですけど、道具にしてはロマンチックが過ぎるというか、想いが乗っかってたりしてあんまり「道具」っぽくないんですよね。僕がギタリストでいられるのはギターという楽器があってこそのことなので、捨てるという発想がそもそも頭にありません。

それこそ人それぞれなので、使わなくなった道具を捨てて何が問題あるんだという人もいると思います。冒頭にも書きましたが水と油なのでその考えを否定しているわけではないし、楽器を簡単に捨てる人は楽器を大切にしていないとも思いません。ただ相容れないというだけです。


楽器を捨てるという行為は、誰かが映った写真を燃やすみたいなことに僕の中では近いです。訣別すべき過去が映っている写真でも、人間の顔がそこにあったら何となく捨てる気になれないみたいな。そういった意味では最近は写真なんてほぼデータですから気に入らなければボタンひとつでデリートできるので心の健康にはよい時代になったものだと思います。話が逸れました。


昔、親父が長年乗っていたセダンからミニバンに乗り換えるとき。納車の日にそのセダンと一緒にみんなで記念写真を撮ったんです。
車も、言ってしまえば道具ですけど、ただの道具と切り捨てることができないからある種の人格を持たせてしまうというか、そういうところあると思います。そんな父のもとに育ったからギターも同じ目線で見てしまうのか、自分がギターに人格を与えてしまうような人間だから親父のセダンに対する行動にも共感するのか、どっちなのかはよくわかりません。どっちでもいいですが。

友人から預かっているギターがあって。ネックが反ってるから直してくれと頼まれたものなんです。ネックは無事に治ったんですが、もっと根本的な問題はそのギターの扱われ方にあった。ボディ埃まみれだし弦は真っ黒に錆びてるし金属パーツはベトベトに汚れてるし、とにかく汚いギターだった。一目見て、長いこと弾かれてないギターなのだとわかりました(もちろんネックを治しただけでなく弦も替えたしボディやパーツもピカピカに磨き上げました)。


自分が大切にしているものを他人にも大切にするよう強要したいとは思いませんが、自分が大切にしているのと同じものを大切にしている人に出会ったらその時は深くわかり合えるよねみたいな、そんな感じですね。


だらだら長ったらしく書いてきた割には当たり前の結論に達しました。

せっかくの土曜日なのに肌寒い曇天です。文章にキレがないのは気候にせいにしておきます。


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