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「普通」とは何か【エッセイ・弦人茫洋2021年3月号】


 例えばの話。

 今、君と俺と、二人でとんかつ屋にいるとしよう。「お待たせしました」と店のおばちゃんが皿を持ってきてくれる。待ちくたびれたぞ、とばかりに俺は醤油へ手を伸ばすが、、、そこで君が言う。
「え。醤油??」
 俺はとんかつに醤油をかけて食べるのが好きだ。それを横から「普通はソースでしょ」などと平気で言われるとちょっとだけムッとする。何でもかんでもソースかけすぎじゃねぇか?って、俺は逆にそう思う。カキフライもアジフライもメンチカツも十把一絡げにソース。そんなにソースが好きなら、寿司や刺身にもソースかけて食ってろ!って思う。
 全く同じことを、君は逆の立場で思うかもしれない。ジュンペイはいついかなる時も醤油ばっかり。カキフライもアジフライもメンチカツも十把一絡げに醤油。そんなに醤油が好きなら、タコ焼きやお好み焼きにも醤油かけて食ってろ!
 そんな風に言われては参ってしまうから、俺は君に「普通は醤油だろ」となどと言わない。唐揚げに黙ってレモンかけられても、まぁそんなもんだろ、って黙って見てる(本当は、唐揚げのレモンは要らない派)。


「普通」という言葉が好きじゃない。ひとそれぞれに違って当たり前の価値観を、むりやり一つの基準に押し込めようとするニュアンスが苦手なのだ。今の自分の生活は、自分にとっては「普通」のものだ。と同時に、ぜんぜん普通じゃないことも自覚している。矛盾しているようだけど、成立するのである。価値観を平準化する為には、他人のしあわせと自分のしあわせを比較しないといけないから。そのことに違和感を覚えるのかもしれない。

 自分のギターについてもそう。褒めて頂ける言葉はどんなものでも基本的に嬉しいものだけれど、「普通に上手い」だけはちょっと、残念な気持ちになる(それでもそんな言葉をかけてもらえるだけでもありがたいことだけれども)。そうやって言ってくれる人も悪気があるわけではなくて、「あたかも普通のことのように難しそうなことをやってのける上手さ」みたいなニュアンスなんだと思う。そこまでわかっていても尚、やっぱり違和感はぬぐえない。
 だってさ、「普通」と「上手い」って矛盾するように思えない?どっちやねん!って。キモかわいい的な感じか?アンガールズ田中か?ちなみに俺はアンガールズ田中さんのことは、キモかわいいというよりも「おもしろおじさん」って思ってます。


 今の生活様式についても同じことを思う。昔は良かったなんて真剣に語りだすと笑えなくなる。俺は楽天ファン、、、間違えました、「楽天家」なので、笑えない記事を書くのは本意ではない。とはいいつつもヤッパリ、「昔は良かった」というのが避けて通れない心境であることもまた事実だ。文字通り、鮨詰めになったライブハウス。パンパンに膨れ上がったボルテージが爆音と共に暴発する。熱狂。騒音。汗。歓声。それらは今、この世界のどこにもない。

 うーん。。。今月はやっぱりちょっと、笑えない記事になってしまうかも。それでも、重要なことだと思うので、書きます。

 普通の生活に戻りたい、と誰もが思っている。それは裏を返せば、今が「普通」ではないと認識しているということになる。「緊急事態」などという物騒な言葉が平気でテレビに流れてくるような日常だから、そりゃ普通であろうはずがない。その一方で、この状況を受け入れて、「普通」のものとして順応しようとしている(あるいは既に順応した)人々もいる。


 少し角度の違う話をする。

 そもそも文章というものは、誰かに読まれるために存在している。読んでもらうことを前提としない文章もこの広い世の中にはあるのかもしれないけれども、未だかつてお目にかかったことがない。そりゃそうだ。読んでもらうことを前提としていない以上は、目にする機会もそう滅多にあるわけではないだろう。可能性という意味では、自分にもこの先何らかの表現において、読んでもらうことを前提としない文章に携わる日が来ないとは限らない。とはいえ、今の自分の貧弱な想像力では、それが一体どういうものなのか、さっぱり見当もつかない。
 文章は長いこと書いている。高校1年生からブログを書いているのでかれこれ14年目になる。もともと文章を書くことに興味があったわけではなくて、ブログを始めたのも好きな芸能人の真似事がきっかけだった。文章にはそもそも「なぜ書かれたのか」というベクトルのようなものがあるが、芸能人の真似事で始めた高校1年当時の自分のブログ。そのベクトルのことを思うと今更ながら何ともやりきれない気分になる。
 今はこうしてnoteで発信しているが、それとは別にニフティブログも長いこと書いている。ニフティは大学に入ってから始めたものの、ベクトルは高校時代と大して変わっていなかった。大人になったり、noteをはじめたりしたことによって、最近ようやくそのベクトルが変わってきた。先日、そんなブログを自分の母親が読んでいることを知った。

 そもそも文章というものは、誰かに読まれるために存在している。書きたいから書いてるなんて、そんな単純なものじゃない。読んで欲しいからこそ、書くのだ。自分のことを知って欲しいからこそ、書くのだ。究極的には、文章を書く欲求の根源にはそれがあると思っている。自己表現。承認欲求。自己顕示欲。悪い意味でなく。巷には、実に簡単な言葉が容易く並べられている。「誰でも出来る○○」。「××の力を爆上がりさせる方法」。それは広い意味で「共有」と言えなくもないだろう。強い言葉を見出しに使うのは読者の目を引くためだろう。読んで欲しいからだろう。そこに本当に、1mmも自己顕示欲が全くないと言い切れるものだろうか。自分にその自信はない。むしろ否定するつもりもない。自分が書く文章には、少なからず承認欲求が含まれている。

 そうでありながら、ブログを読んでもらえることについて(その読者に母が含まれているという理由で)文句を言うのはあまりにもお門違いというものだ。ミュージシャンをやっている息子がどんな記事を書いているか、母は単純に気になったのだろう。なぜなら、ミュージシャンではない母親にとって、ミュージシャンの生活は「普通ではない」からだ。それが自分の息子なのだから、なおさら興味を持ったのだろう。このnoteも、こっそり読まれていたりしてな。だとしたら恥ずかしいけどついでに書いておこう。いつもありがとうございます。
※母が読んでなかったらより恥ずかしいことになってるね。


 話が逸れたので元に戻す。

 ミュージシャンでない母にとって、ミュージシャンの生活は「普通ではない」ものである。一方、息子の存在は母親にとって日常の一部であり、「普通」の代表格みたいなものかもしれない。俺は、母の息子であり、ミュージシャンでもあるから、普通であり、なおかつ普通でないということになる。「普通」の中に「普通でないもの」は容易に存在し得るし、それが矛盾しないというのは、嘘でもハッタリでもない。人間という存在自体、矛盾して当たり前の概念なのだ。


 以前、仕事の都合で仙台に住んでいたことがある。印象的なのはやはり3月だった。震災の祈念にあたる月だというのに、言ってしまえば余所者である千葉県出身の俺に対してすら、地元の人たちはあたたかくいろんな話を聞かせてくれた。その中でも特に心に残っているのが、「(仮設住宅から出て)やっと普通に暮らせるようになった」という一言。その方が仮設住宅に住まわざるを得なかった期間の長さにも驚いたが、それよりもその言葉のニュアンスや重み。空気感。雰囲気。そういったものが強烈に記憶に刻み込まれている。彼の言葉には、元に戻ったのではなく一歩を踏み出した、失った過去を取り戻したのではなく新たな希望を手に入れた、引き返したのではなく前に進んだのだというニュアンスが多分に含まれていた。
 思うに、それこそが重要なことなんじゃないかと。普通の生活に「戻る」のか、自らの希望する未来へ「進む」のか。所詮は言葉の綾と思われるかもしれない。大した違いじゃないと笑われるかもしれない。気の持ちようでしかないと相手にされないかもしれない。それでも俺は、些細な違いなのだとしても無視してはいけない、重要な違いだと思っている。


 ついつい口にしてしまいがちな「普通の生活に戻る」とはどういう意味だろう。それを考えるには、「普通」とは何か、その問いに答えられないと話にならない。世の中で思われている「普通の生活」のイメージは、居酒屋に仲間たちと集まって朝まで打ち上げ。映画館はパンパン。通勤のために仕方なく乗らざるを得ない満員電車。そんなところかもしれない。それらは今、「普通」ではない。「普通」でないものへ敢えて「戻る」と考えるのは、その考え方もまた「普通ではない」ように思える。

 息苦しい時代だということはどう考えても間違いなさそうだ。誰もみな、その息苦しさから逃れたい。美女とこっそりクラブに出入りしていた廉で離党する政治家とかを見ていると、何とも言えず、いたたまれない気分になる。この閉塞感をなんとかして、打破したい。それを乗り越えた先に望むものは人それぞれに違って当たり前で、それこそ「普通」のことだろう。人と対面で話すことが苦手な人は、オンライン会議という新たな手段を手に入れたのだから、これからも活用したいと思うだろう。俺は対面で話すほうが圧倒的に好きなので、俺が望むのは親しい人と気兼ねなく飲みに行ける世界。大事な人の手を躊躇なく握ることが出来る世界。たいせつな気持ちを、相手の目を見て自分の口で伝えられる世界。それは今、残念ながら「普通」の価値観ではない。「普通でないもの」を手に入れるためには、それなりの行動を起こさなければならない。「普通でない」と言われるミュージシャンになったときと同じように。

 
 さて。残りのとんかつはどうやって頂こうか。俺にとって普通ではない「君の普通」を味わうためにソースで頂くか。あくまでも醤油にこだわって「自分の普通」を守り抜くのも悪くはないだろう。

 
 ただ、君がソースを強要しない限りは、自らすすんでソースを選ぶアグレッシブな日があっても、いいんじゃないかなと思える、そんな変化がこのたった一年の間に生まれたこともまた事実だったりする。


ジュンペイ


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