徒然草をひもといて 5章⑯164段、165段、166段

  兼好法師、このところ、虫の居所が悪いのか、世間一般の人々の習性を見る目が厳しい。
 まず ”世の人相逢う時、暫くも黙止(もだ)することなし。必ず言葉あり”と、いかにも不足らしく書きしるしているが、それは、今でも、ふつうそうじゃないですか?❞こんにちわ”と云って、それきり黙ってるわけにもいかないし、お天気の話ばかりしてもいられないし、どこが気に入らないんですか?というと、かれらの云ってる言葉の内容を聞いていると”多くは無益の談なり”だから、という答えである。
 世間話に,益も無益もないでしょう、と云いたくなるが、法師がきめつける無益とは、まず、”世間の浮説、当世流れているはっきりしない浮いた話や、人の良し悪し、つまり他人の批判、などで、自他ともに、なんの益もないばかりか、失うところ多く、得るところなし、だから、という。しかも、話しているご当人はお互いの心に、それが何の益にもならないことも知らない、という。会話というものが人格を磨くため、とばかりは言えないし、これは、ちょっと厳しすぎるうえ、最近では高齢者が、ひとりで、だんまりでいると脳が呆ける、という説もありで、そのまま受け入れられないが、わたしはこの段の言説のなかの「互いの心に無益のことなり」という節で”互いの心”という語に注目したいと思う。いかに気楽な世間話でも、他者と語る場合には、心をしっかり、まっすぐに保ち、つまらぬ噂話などにのめりこまないこと、多少楽しみには欠けるとも、これは大事なことかもしれない。
 165段も、法師の日頃からのあづま人に対する差別意識が、かなりはっきり感じとれる段で、あずまの人が都の人に交わり、都の人のあづまに行きて身を立て、…「すべて我が俗(習俗)にあらずして人に交われる、見苦し」と言い切る。現代では考えられない認識かもしれないが、「わが俗(習俗)にあらずして人に交われる、見苦し」とまで言う兼好の言葉は、現代では受け入れられない話だが、わたしには、わからないことはない。長く京都に暮らして、現代、京都人にあずま人や他郷の人間に対して、そういう意識がある、と考えたことは無いが、大阪南部泉州の一部で、土地の人に、そういう感覚がまだ当たり前のように残っていて、自分達の土地の人間でない人を”くにもの”呼ばわりして差別する意識があることを知って愕然とした覚えはある。
 だが、現代のように、世界中の人が他郷に住むのも普通になった時代であるが、人間には、まだまだ、こうしたよそ者を差別する感覚が残っているかもしれない。心は広く持ちたいものである。 



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