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『元気です。』

欠伸を堪えず、腕を伸ばして空を見る。今日もいい天気である。
今朝の郵便物は3つ、うち2つは事務的なもので封を開けずに机に置いた。残る1つは見慣れない封筒、裏面を見るとそこには私が尊敬する人の名前があった。名前から顔を連想し、顔から関係性を特定。その工程が終了したとき霧がかかっていた思考はシャボン玉のように弾けやっと意識が覚醒した。

代り映えの無い日常、その隙間に飛び込んできた数枚は褪せた日常に色彩を運んだ。
『お元気ですか?』例えそれがテンプレートのような書き出し1つだとしても、差出人が君だというバイアスを持って黙読すれば奇跡の一言に昇華する。因みにこのバイアスという言葉は最近気に入っているもので、意味は偏り。この場合では先入観、また思い込みによって客観的な判断を歪めると言った方が分かりやすいだろう。例えるなら、パソコンからプリントした事務的な手紙より知人から送られてきた手書きの手紙の方が、読む前から内容に良い印象を想像してしまう。そんな現象である。
『お元気ですか?』しかし、相変わらず字に魅力のある人だ。私は所謂”ミミズの這ったような字”であるから文字を書くときは大抵パソコンを利用してしまう。それはコンプレックスによるものではなく(いや全くコンプレックスが無い訳ではなくもないが)純粋にパソコンの方が修正が楽だからという効率重視の動機に尽きる。中には「プリントした言葉は機械的で温かみがない」という人もいるが、ミミズがのたうち回った字を寄越されても解読が手間だろう。故に、私は読みやすさを配慮した結果いつもタイピングを選択している。やはり時代は機械化である。決して手書きがめんどくさいという訳ではない決して。
『お元気ですか?』しかし何故手紙の書き出し一行目は健康状態の確認から入るのだろうか。お元気でなければ読めない内容、ということでもないだろうに。或いは、心身に攻撃性のある言葉が以下に続くという警告なのだろうか。いや、それは流石に意地が悪すぎる考えだった。昨今は某ウィルスについて騒がれていたから、普通に心配だったのかもしれない。天邪鬼を鍋で煮込んだような性格だからついつい、そういう風に考えてしまう。何事も最悪を想定してから取り掛かったほうが怪我が少ないという生存戦略が思考回路に刻み込まれているのだ。冒頭あいさつから先を読めずに、思考の反復横跳びに興じているのも、本当は単に怖いからに過ぎない。
…いい加減先を読もう。怒られてしまう、そんな気がした。

冬の体育館にあるストーブ、炎天下の木陰、君の言葉。知らず知らずの内に緊張していた心は書き出し一行に続く内容に救われた。なんだ、何てことない素敵な手紙だった。椅子に背を預け余韻に浸る、緩んだ頬は嬉しさの表れ。今の表情に擬態語を付けるなら確実にニヤニヤだ。
”単純ですね”なんて言うなかれ、繊細なのだ。

先の少し潰れた鉛筆は愛用の2B。元来ものを書くときは筆圧が弱くなるので多少濃いくらいが丁度良い。机の上に散乱したものを端に寄せ無理やり捻出した空間はA4サイズ、横向き分。肘を置くことは出来なさそうである。上半身を右に38度捻った位置で右手を伸ばすと、指先に触れる白紙の紙束、A5サイズ。こいつが私のアイディアノートの代わりを務めている。さて、返事は何て書こう。季節の挨拶か、健康状態の確認か、はたまた洒落の聞いた言葉か。内容はどうしよう。封筒はどうしよう。プリントは機械的だから手書きで書くべきだろう。長さはどうしよう。
普段からよく回るこの想像は、この日この瞬間だけブレーキを失ったバイクのように果てしなく、ただ答えのない押し問答を繰り返すだけだった。次第に汗ばむ手のひらにオーバーヒートした思考が先に音を上げた。何も考えずに動いた手元で静かにミミズが這う。

…先ずは、返事を書こう。

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