風のタッチ

「いつまでもたもたしているんだ?」
「もたもたなんてしてません。僕の気持ちは、いつだってゴールに向かっています」
「そうは見えないがな。ほとんどちんたらちんたらしているように見える」


「それはどういう意味なんです?」
「そのままの意味だ」
「今は辞書を引くような暇はありませんが」
「向かうべき場所はわかっているだろうな」
「ファーサイドにスペースがあります。そこが僕の向かうべき場所です」
「確信があるのか?」
「わかりません。だけど、そういう決め事です」
「決め事の先に、決定力があるといいんだが」


「見ていればわかりますよ」
「そうだ。私はずっと見ている。それが監督の仕事だからな」
「僕の働く場所は、相手ゴールの前にあります」
「そこが好きか?」
「僕らは戦術に沿って動かなければなりません」
「勿論だ。わがまま放題では戦術は成り立たない」
「でしょうね」
「だが、本当にそれだけか?」
「他に何か必要ですか?」


「君は戦術だけに従って動いているのか?」
「元を辿れば、疑わしいところもあります」
「どこまで辿るつもりかね?」
「例えば、最初のゴールを決めた日まで」
「例えば、最初にボールに触れた日まで」
「まだ戦術なんて言葉も知らなかった日まで」
「好きだからでは?」
「嫌いだったらここにはいません」


「君は左足で打ちたいのだろう?」
「どちらかと言うなら、その方が理想ですが」
「戦術なんてなくても、君は同じように同じ場所へと動くのではないだろうか?」
「戦術のないピッチに立つことがあるんでしょうか?」
「そりゃあ、あるだろうさ」
「僕はまだまだ引退するつもりはありません」


「譜面よりも先に、音楽はあると言っているんだ」
「そりゃあ、あるでしょうよ。鳥だって知っていますよ」
「そうだ。鳥は、あらゆるアーティストの先を飛んでいるのだ!」
「お互いライバル意識なんてないでしょう」
「勿論そうだ。そんな主張を展開する気はない」
「そうあってほしいです。ここは人と人が戦う場です」
「勿論そうだ。だが、戦場にも歌があるのだ」
「僕たちを応援するための歌ですね」
「そうだ。我々を奮い立たせるための歌だ」


「とても勇気が出ます」
「その歌がどこから来たと思う?」
「あのスタンドです。ほら、あそこですよ」
「よそ見をするな! 歌はもっと遠いところから来たのだ」
「スタジアムの外でも歌ってくれるサポーターがいますね」
「いいや。もっと遠く。もっと遠くだ」
「僕たちのファンは海の向こうにもたくさんいます」
「もっと遠く。歌は愛より来ているのだ」
「僕たちへの愛だと言うんですね」
「もっと大きな愛だ」
「はい」


「今、君が立っているのもそんな場所だ」
「僕はピッチの上に立っています」
「愛のある場所に立っている」
「はい」


「君がシュートを打ちたいという場所に」
「そこが左に寄っていたのか」
「好きが、君を君の行くべき場所へ運んだのだ」
「そうかもしれません」


「ある日、猫は犬を枕にして眠っていた」
「どこの猫です?」
「自分の心地良い場所を知っていたからだ」
「でも、犬の方はどうなんですか?」
「犬は、目を覚ますと飼い主に訴えたのだ。散歩につれて行け! さあ、早くつれて行けよ!」
「うずうずしていたんですね」
「そうだ。とてもうずうずしていたのだ。だから滑り出しは快調だった」
「キックオフから五分のようにですね」
「いや、開始十秒だ」
「スタート・ダッシュですね」


「犬は道が好きだった」
「はい」
「犬は駆けることが好きだった」
「でしょうね」
「好きと好きが合わさるとどうなると思う?」
「それはハッピーな気分になるでしょうね」


「もっともっと好きになるのだ」
「はい」
「だから、犬の散歩道はいつでも輝きに満ちている」
「黄金の道ですね」
「時にはずっと眺めていたいほどだ」
「暇なんですか?」
「こちらまで楽しくなってくるからだ」
「なるほど」
「私にもそのような道がある」


「監督にも?」
「私も歩くのが好きだった」
「犬と似てるんですね」
「歩いていると、両サイドの景色が変わる」
「はい」
「いくつもの歯科医、いくつものセブンイレブンを見るだろう」
「ずっと歩いているんですね」
「好きなところまで歩くことができる」
「本当に好きなんですね」
「歩くことは元の場所から離れることだ」
「でしょうね」


「そのためには一歩一歩を積み重ねなければならない」
「どんな旅路でも一歩がなければ始まらないんですね」
「その通りだ。どんな勝利も、どんな美しいゴールも、すべてはワンタッチ、ワンタッチの積み重ねなのかもしれない」
「タッチを積み重ねて結果を実らせることができるんですね」
「その通りだ! ワンタッチを笑う者、疎かにする者は、いずれはワンタッチに泣くことになるだろう」


「一つのタッチを大事にすることが大事なんですね」
「勿論だ。大事にすべきことは大事にしなければならない」
「ワンタッチに無限の可能性が詰まっているんですね」
「ちょっとした触れ方の質によって、結果はまるで違ってくるだろう」
「一見して同じようなタッチでも、紙一重の差で勝負がつくんですね」
「誰かに言われた大事な言葉を覚えているかね?」
「監督とは別の誰かですか?」
「私であっても私でなくてもいい。大事なのは言葉の方だ」


「引出のずっと奥に、それは仕舞ってあります」
「なら、あるんだな」
「はい。本当に必要な時に取り出せるようになっています」
「それでいい。本当に必要なものは、本当に必要な時にだけあればいいのだ」
「はい。監督」


「信頼は一つ一つの言葉によって築かれるものだ」
「きっとそうかもしれませんね」
「だが、それは一日にしてできることではないんだ」
「そうでしょうね」
「もっと長い時間が必要だ」
「少し気が遠くなりますね。眠たくなるくらいです」


「それこそが日々というものだ」
「やっぱり、行き着くところは日々になるんですね」
「その通り! わかりかけてきたようだな」
「日々が僕らをここまで運んできたんですね」
「さあ、これより我々の壮大なカウンターが始まる」
「はい」


「人々の夢と共にゴールへ運べ!」
「監督、見てください。これが僕の、日々の先に伸びた足先です」
「ああ。君のファーストタッチを見せてくれ」
「風です! 監督。今日は風が強いけど、こんな時に大変強い風が吹いています」
「思わぬ風だ」
「僕らのカウンターの先に、思わぬ風が吹いています」


「落ち着け! ピッチの上は思わぬことの連続ではないか。荒れた芝生。突然の雨降り。ぬかるんだ地面。横殴りの雨。空を横切る鷹。絵に描いたような鱗雲。怒り狂った主審。寝ぼけた線審。禁句を並べた横断幕。豪雪。迷い込んだ子犬。迷いを知らぬ少年……」
「思うよりも、ずっと強い風です」
「何でも思い通りにはいかないさ」
「ああ、トラップが……」


「落ち着け! 風を味方につけろ!」
「上手くできませんでした」
「よく見てみろ。ボールは君の先にあるじゃないか」
「ああ、風が最初に運んでくれました!」
「そうだ。君のファーストタッチは風だ」
「今度は上手くいきそうです」
「そうだ。風と共にゴールに迫れ!」


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