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長崎次郎書店、長崎書店と保岡勝也②長崎次郎書店はいつ建てられたのか


5番目の説 昭和4年3月新築説について考える

大正13年、大正15年に設計され、なぜ昭和4年竣工だったのか?

 長崎次郎書店支店(現 長崎書店)創業25周年にあたる大正3年に、まず保岡勝也の設計により長崎次郎書店支店の大改修工事が行われた。  
 
 そしてその10年後、今度は長崎次郎書店創業50周年の大正13年に長崎次郎書店ファサードの図面が描かれている。これは創業50周年を記念したリニューアルのためとも思われるが、このタイミングで施工されることなく、さらにその後の大正15年にもデザインが描かれ、全部で4枚の図面が確認されているという。

 それではなぜ設計された大正13年、大正15年ではなく昭和4年の竣工となったのか。これは熊本市営電車(熊本市電)の開通が影響しているように想像する。

熊本市電開通と長崎次郎書店

 熊本市電開通の歴史を見てみると、大正6年から現在の熊本市電につながる動きがスタートしている。同じ大正6年には長崎茂平(長崎次郎の甥で、次郎の養子となった長崎次郎書店支店開設者。当時は長崎次郎書店代表社員兼長崎次郎書店支店長。)が熊本市会議員になっている。

 電車は当初民間会社で開業する予定だったが、紆余曲折を経て市営化すると決定したのは大正11年。そしてようやく最初の路線が開通したのが大正13年。しかしこの路線には長崎次郎書店は含まれていない。

 新しい路線の開通を望む沿道市民による市電第二期線促進運動が行われ、大正15年6月16日、市会で第二期線案が可決された。この中の上熊本線(辛島町―新町―段山間)沿線に長崎次郎書店がある。

 昭和4年、第二期線開通時の町の様子が、昭和14年に出版された「熊本市政五十年史」で伺える。

市電第二期線の完成は森の都熊本の交通上、市街美上劃期的現象を表はし近代都市としての外形を整へるに至つた

大眉一未.「熊本市政五十年史」.九州中央新聞社,1939,P.455.

新町、段山間が十間半淨行寺町、子飼橋間が十間でいづれも幅員の廣い市街路を形造り、近代都市の美観を呈してゐるが、舊城下町であつて昔ながらの俤を保持して何となく閑寂の感じさへあつた新町、段山方面の面目は全く一新し新興の氣運が漲つて來た。

大眉一未.「熊本市政五十年史」.九州中央新聞社,1939,P.455.

 前面道路の幅員も広くなり、路面電車が通る新しい街並みの完成にあわせて、昭和4年に長崎次郎書店はリニューアルしたのではないだろうか。市電第二期線開通の折、曳家の際に模様替工事が行われたという可能性は大いにあり得ると考える。この可能性は「熊本県の近代化遺産」でも指摘されている。

1928(昭和3)年、市内電車第2期線開通及び三階増築(裏手にあった解体された蔵の事。)の際、その家主であった長崎茂平(上通店の初代創業者)と棟梁・岩瀬嘉次郎との連名による棟札がのこされていることから、既存の建物の曳屋の際、表通りの店構えだけが、東京の建築家・保岡勝也によって設計されたようだ。

西川真由美,佐藤高光,北野隆.「熊本県の近代化遺産」(熊本県教育委員会,2000,p91.)

 しかしこの資料の中では「竣工年不詳」となっているため、竣工年を裏付けられる資料はなかったものと思われる。そうすると市電開通が影響したと考えられる竣工時期として、「熊本之事業と人物」(下吉正助.熊本之事業人物刊行所,1929,p.26.)、「新日本人物大系 上巻」(東方経済学会,1936,p.604.)という2誌に記載されていた昭和4年3月説も一つの可能性として考えられるのではないだろうか。  

ここまでの流れを表にまとめてみる

 ここまでの長崎次郎書店・長崎次郎書店支店と保岡勝也、熊本市電開通に関する流れをまとめると表-1のようになる。

保岡勝也の設計スタイル

 表にまとめてみると、長崎次郎書店開業後、大きな節目で動きがあることが見えてきた。しかし開業50周年の大正13年の後、大正15年にも保岡勝也による図面が描かれている理由は不明である。
 
 それはもしかしたら保岡勝也の設計スタイルによるものかもしれない。保岡勝也の設計スタイルについては内田青蔵氏の研究が興味深い。以下は保岡勝也設計の「山吉デパート」(1936年.埼玉.)に関する記述である。

恐らく、保岡は、数種類の案を用意して施主に見せ、その中から施主の求めるものを選ばせていたのである。それは、利便性や経済性の追求という責任は負いつつも、趣味性は施主の意志を優先させることを意味している。こうした設計方法に、独立後の建築家としての姿勢が見て取れるのである。

内田青蔵.「生き続ける建築-9 保岡勝也 ”婦女子”の領分に踏み込んだ建築家」(INAX REPORT NO.175,2008,p.14.)

上記の文の注釈として以下のような文章が添えてある。

スケッチを数種描いて施主に見せるという方法は、熊本に現存する「長崎次郎書店」(1926)でも行われていた。ちなみに、長崎次郎書店では、異なった外観が4種類描かれたといわれている(「熊本県の近代化遺産」(熊本県教育委員会 2000))

内田青蔵.「生き続ける建築-9 保岡勝也 ”婦女子”の領分に踏み込んだ建築家」(INAX REPORT NO.175,2008,p.14.)

 大正13年に図面を描いたにも関わらず何らかの理由で着工されなかった。もしくはそもそも大正13年着工予定ではなかったのかもしれない。いずれにせよ着工に至っていない作品に対し、大正13年~大正15年にかけて4枚の図面を施主に提示するという保岡勝也の仕事ぶりを、長崎次郎書店を通して垣間見ることができる。


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