見出し画像

都城(みやこのじょう)旅行記(18) 薩摩藩&西郷隆盛

江戸時代末期~明治時代初期は日本の歴史が急展開した時期です。 薩摩藩を中心に日本史が動いた時期でもあり、その中心にいたのが西郷隆盛でした。
簡単な年表を作成したのでご覧ください。

戊辰戦争での会津攻めについては、150年を経た今なお会津人は鹿児島を恨んでいる、と聞きます。(最近になっても「和解した」とニュースが流れたり)

1871年の廃藩置県は、明治天皇の名のもとに中央集権の妨げとなる地方の力をそぐことが目的でしたが、実際には倒幕の立役者だった薩長土の下級武士が案を練ったようです。 原案では、長州・土佐が2分割、薩摩が3分割だったのに、最終的には長州・土佐は分割されず、薩摩だけ3分割されていた。 薩摩人の無骨さ(私欲のなさ・要領の悪さ)の結果だと私は考えます。

その後次々と出される新政府の政策は、薩摩に敵対するものが続き、薩摩の不満は膨張していった。 西郷隆盛は新政府の中にいたが「大所高所から日本全体を俯瞰」し、薩摩の不利益にも反対しなかった。(私は、長州人が薩摩の力を削ぐ政策を作っていった、と解釈)
西郷隆盛は薩摩の不満を外に向けるために征韓論を唱えるも却下され、薩摩人と命運を共にする腹を固め、西南戦争に突入する。

西南戦争は薩摩軍 vs 政府軍の戦いだが、政府軍は薩摩から中央政府軍に入った薩摩人が中心だった。 装備に勝る政府軍の一方的な勝利に終わるが、戦争の中身は薩摩人同士の殺し合い。 (中央政府を牛耳っていた長州人による薩摩封じの陰謀、と私は解釈)

西南戦争の間、わが都城島津家は中立を続けたそうです。 薩摩軍の兵站を担わされるも、両軍が都城に入らず通過したり、敗戦した薩摩軍が都城に来ないよう「都城は幕府軍で溢れている」と噂を流し薩摩軍を迂回させたり、なかなかしたたかな戦略を取ったようです。

こうして、われらの英雄 西郷隆盛は「もう、ここいらでよか」と鹿児島の城山で最期を迎えました。

明治維新を通し、本当に日本の将来を考えていたのは西郷どんだった。 長州族はその偉大さ故に薩摩に罠をしかけ、西郷どんを追い込んだ。
帰りの飛行機の中でこんな歴史の側面を推察していた私です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?