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ナイル川でバタフライ(1)〜以前の私にとって、旅とは純粋に体験だった

先日Mさんとレバノン料理を食べながら、21歳のとき、大学の夏休みにエジプトに行ったという話になった(ちなみに、生まれて初めて食べるレバノン料理はすごく美味しかった)。

流れで、そのエジプトでの体験や、その前後に寄ったタイでの体験、さらにはその前年行ったインドの体験、それらの話をした。聴いていたMさんが「ロベルトさんって、20代でエクストリームな(極度の、やりすぎな)体験してたんですね」と言った。

私自身にとってそれらはきわめて大切な体験だが、他人にとってはどうでもいい、個人的な思い出話にすぎないと思っていた。だから、人前で語りすぎると武勇伝好きの痛いおじさんと思われそうで、積極的には話さずにいた。

ところが、多少持ち上げられてはいたのだろうけど、Mさんは面白がってくれた。じゃあ、過去にした旅について、少し書いてみようかと思った。

それに、それらは近年の旅と目的と質が違っていた。

写真を始めたのがちょうど20年前。その1年半後には写真で仕事をするようになった。展覧会も頻繁にやっている。だから、写真を撮ることが主たる目的の旅が増え、自分自身のためじゃない写真を撮る機会も多くなった。

それ以前の私にとって、旅とは純粋に体験だった。

その地を歩き、そこに住む人あるいは旅仲間と語り合い、彼らが何を考え何を望み何をして生きているかを知り、その地で好まれる食事を口にし、可能なら自分が大切にしているものを彼らとシェアする。

上記のエジプトのときも写真はやっていなかった。むしろ写真はいらないと思っていた。写ルンですは持っていったが、撮ったのはピラミッドと、カイロ市街で出会った男性との笑顔のツーショットだけだった(カメラあるだろ、それで写真撮って送ってくれマイフレンドと上機嫌に言われて撮った)。

写真撮影という目的そのものに問題はない。だが、過去20年間の、多くもないが少なくもない旅を振り返ってみてふと、はたしてそれらは、エクストリームではなかったとしても、20代の頃の旅と同じくらいエキサイティングだったろうかと考えた。

エクストリームでエキサイティングな写真はたくさん撮れたと思う。ただ、主体的に人や土地と交わり、心身で体験することを目的とする旅と、人や土地を被写体として客観的に見て記録することを目的とする旅では、どちらがいいとかわるいとかではなく、質がちがう。

もちろん、年齢を重ねてかつてのようには遊べなくなったろうし、世界もずいぶん情報化され均一化されたから、当時と同じような質の体験はできないかもしれない。でも、たまにはカメラのない旅もいいかもと思った。

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