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プノンペン、そういう流れ、静かな雨

「プノンペンに来たんだからぜったい行くべき。行こう、カフェのあとに。」

先日、20年ぶりに会ったダラヴィが、ランチをしたプノンペンの中心部にある洒落たカンボジア料理のレストランを出て、ブラウンコーヒーというカンボジア資本のこれまた洒落たエスプレッソベースのカフェに向かう途中、レクサスを運転しながら言った。

「夕方やりたいことがあるから、もしフェリーの発着場までそのあと送ってもらえるなら。」私は言った。今回の旅ではプノンペンの中心地からフェリーで渡った先にあるメコンに浮かぶ島に滞在していた。

「オッケー。いいよ。娘の塾の方角だし。じゃあ決まりね。」

そうしてダラヴィと彼女の娘のリザ、前日につづいてこの日も会ったチャムナンと私は、ブラウンコーヒーで各々の飲み物を受け取り、ふたたびダラヴィの車に乗った。私はあたたかいカフェラテを一口飲んだ。

プノンペンに来る前には、ダラヴィと再会できるとは思っていなかった。音楽家であるチャムナンとは、20年前に東南アジア諸国プラス日本の若いアーティストがラオスに集ったイベント以来ときどき連絡を取り合っていて、今回は会おうと約束してから日本を発った。チャムナンにはこの前日、かつて教えていたという芸術学校を見学させてもらった。そのときに、ダラヴィ覚えてる? 明日会えそうだから会わない? ということになった。

「この店、他のブラウンコーヒーとちょっと味がちがうと思うんだけど、どう思う?」ダラヴィが左手でハンドル、右手でカップを持ちながら言った。

「たしかに昨日チャムナンと行ったところとは少しちがうかも。」もう一口飲んで私が言った。

目的地までは車ですぐだと言う。その存在は随分前から知っていた。今回で2回目のカンボジア。前回も今回も、ガイドブックでもその存在を確認していたが、率先して行こうとは思わなかった。今回は制作だけじゃなくて、せっかくだからそういうところにも行くべきかなと少しだけ思ったが、「観光」にいっこうに氣が向かなかったので、意識のなかでは完全に却下したつもりだった。食事の前にも「どこか行きたいところはない?」と訊かれ、そのときも一瞬頭をよぎったが「考えておく」と言っただけだった。

到着し、車から出てなかに入ると、外国人グループが何組か付近にいた。

ヘッドホンから聞こえる音声ガイドに沿ってなかを歩いた。さまざまな感情が内側で湧き、渦を巻いた。当時の状況をもっとリアルに想像したい自分とこれ以上は想像したくない自分とがせめぎ合った。

S21。クメール・ルージュ支配下のいわゆる政治犯収容所であり、現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれる虐殺博物館になっている。述べ2万人とも言われる人々がここに収容され、拷問され、殺された。撮影は禁止だから、写真はない。

高校時代、バートランド・ラッセルの思想に触れた。彼のように平和な世界に貢献することを夢見て、国際組織で働くことを見据え、大学で国際法を専攻した。在学時に多くのNGOや組織に関わり、難民支援団体でもボランティアをした。そのなかにはカンボジアからボートで日本に来た難民も多くいた。

ところがその間、心の底からやりたいと思える仕事やロールモデルに出会うことはなかった。加えて、卒業後に出した平和に関する絵本で、その領域に自分から直接関わることにはピリオドを打ったつもりでいた。

だから、S21は「避けて」いたんだと思う。

しかし、ダラヴィにトゥール・スレンに行こうと誘われたとき、なんとなく「そういう流れ」があるように感じた。これまでの人生のなかでも幾度となく感じては身を任せたことのある「そういう流れ」。今回もそれだった。プノンペンに行くことを決めたときからきっと、行くことになっていたのだ。

この夏、かつての情熱を思い出す状況に、S21だけでなく、日本でも何度も何度も巡り合わされている。

S21を出てから、チャムナンの娘と姪っ子を、彼女たちが午前の公立小学校のあとに午後だけ通うという英語で教える学校でピックアップした。ひどい渋滞で、子どもたち全員を次の習い事に送り届ける前に、ダラヴィのオフィスがある現代建築の高層ビルのすぐ近くで車が30分以上動けなくなった。

カーステレオからは、日本の演歌のようなものだろうか、ノスタルジックなメロディとリズムのカンボジアの古い流行歌が流れていた。ふつうに英語が話せる新世代のカンボジアの若者たちは宿題をしたりスマートフォンでゲームをしながら時間をつぶしていた。

けっきょく夕刻にやろうとしていたことには間に合わなかった。だが、それをも含めたこの日のできごとすべてが、もしかしたら潜在意識で望んでいたものだったのかもと、暮れゆく都会の景色を見ながら思った。

日の入りとともに雨が降った。青く、静かな雨だった。

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