主語だけじゃない日本語があいまいな理由
人の思考は使っている言語の特性に影響を受けるという話を聞いた。書家の本田蒼風さんのお話。
英語と日本語を比べて、日本語は主語がなくても会話ができるから、主体がはっきりしない。むしろはっきりさせすぎるとうざい。その通りだと思う。
加えて、英語にはアクセントがある。あまり言われないことだが、これが思考に影響を与えていると私は感じている。
アクセントとは、単語のなかのいちばん強く発音する音節というのが一般的な理解だ(アメリカの高校に通っていた頃、Englishクラスの先生に、Hiroshimaは、Hiroshimaが正しいのかHiroshimaが正しいのか訊かれたことがある)。
さらに英語には、単語だけでなく、文章の中にもアクセントがある。
たとえば
I love Tokyo.
この文のどこにアクセントをつけるかでニュアンスが変わる。
I love Tokyo.(私は東京が好き)
I love Tokyo.(東京めちゃ好き)
I love Tokyo.(東京が好き)
アクセントは1箇所にしかない。そこが文のいちばん大切な部分だ。
だから、英語を話しているときは、常に何がいちばん大切なのかを瞬時に判断しながら話している。
この思考(仮に「アクセント思考」と呼ぶ)が、英語圏発の文化には多く見られるように私は感じている。
たとえば、機械やソフトのインターフェース部分、VMDと呼ばれる商品陳列の理論、いろいろなところで「このなかで一番大切な部分はどこか」ということがはっきりしている。アクセント思考が反映されているのではないかと感じるところだ。
映画でも、一番大切なキャラクター、一番大切な場面というのがはっきりしているのもアクセント思考の反映と言えなくもない。一方、日本のアイドルは年々グループ化するし、前まで単数だった仮面ライダーは近年複数だ。どんどん中心がぼやけてきている。
十代のころ、韓国語、中国語、ロシア語をかじった。マスターには程遠く、本当に基礎の基礎くらいのところまでしか学んでないのだが、それでも、それぞれの言語特性はなんとなく理解した。翻訳不可能な単語が存在するのと同じように、翻訳不可能な思考が、それぞれの言語にある。
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