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(追悼)デモクラシーの「申し子」だった安倍元首相

(本稿は安倍元首相が2年前に首相を辞めると表明した報に接し、2020/9/9に「不動産経済Focus&Research」に発表した『首相の辞意とデモクラシーの虚妄』を改題して、追悼の思いを込めて再公表します。)

首相の辞意

 先日、歴代最長の長期政権を担った安倍首相が辞意を表明した。出張先でその様子をテレビで見ていた私は驚き、かつ、この国の行方を思い、暗澹( あんたん)たる気持ちにとらわれた。

 私はいわゆる「安倍信者」ではないし、その実行された政策には多々の異論を抱いている。 また、安倍首相に対してはその誕生当初から、 左派陣営やメディアは「タカ派」とみなして過剰 に警戒し、ひたすら揚げ足取りに終始してきた が、むしろ私は「タカ派」が期待するほどの成果は残せぬと見ていたし、その予測は半ば当たったように思う。

 しかしながら、安倍首相について内政面で課題が残った一方、外交面で一定の成果を上げたとの評価に一様に留まる通俗的メディアの見方とは異なり、私は政治学を専門とする立場からすれば、安倍首相ほどデモクラシー を体現した宰相はいないと高く評価しており、 その有能としか思えぬ政治家を寄ってたかって潰したメディアと、その論調を鵜呑みにする少なくない人びとに対して憤りを、そして、デモクラシーの矛盾とを感じたので、それをここで言語化する次第である。

 

デモクラシーの本質とは



 まず、「政治」とは何か。 人間は古来より集団(社会)を成して生活し てきた生き物である。その人間が属する社会は現代では国家に限らず、会社、学校、地域、家庭などさまざまにある。その各々の社会での 行き方については「集団的決定」が求められ、その決定をめぐる事象すべてが「政治」である。 なかでも国家における「集団的決定=政治」 については、古くは殿様や貴族という「お上」が他の人びとを蔑(ないがし)ろにした専制を布いたが、 現代国家においてはデモクラシーを基軸制度とし、その国家に属する(なるべく)多くの人び との合意が求められることとなった。

 しかし、国家の「政治」を負うべき政治家に は、心地よく響く公約を並べて人びとの同意を得て信任されるや、その公約を反故にするのが圧倒的多数で、果ては公約など人びとを騙(だま)す「膏薬(こうやく)」に過ぎぬと開き直る輩までいた。では何がなんでも公約を実行すれば良いのかといえば、それに反対する「抵抗勢力」を粛正してまで突き進んだ宰相もかつてはいた。こうした強行姿勢を小気味よいと拍手喝采を送る向きもあったが、前述したようにデモクラシーが前時代的な専制とは異なり、人びとの合意を可 能な限り確保する「政治」であることの認識をまるで欠いている。

 こうした風潮が広まるのはメディアがセンセーショナルな見出しで媒体を「売る」ことを優先し、いたずらに「政治」の変革を煽(あお)ったためでもある。それにより、政治用語はインフレ化し、近頃は「改革」も陳腐化し、「リセット」だの「革命」だのという刺激的文言が飛び 交うようになり、それに人びとは麻痺しているのだ。しかし、仮に「リセット=革命」が現実にな れば、それは現体制の「破壊」に他ならず、突き詰めれば現憲法と、その基調を成す平和主義や人権尊重、そして「政治」の基軸たるデモクラシーまでも全て葬り去られることと同義であ り、さらにはそれが自らの生活基盤を脅かしかねないことにまで考えが至らぬ無思慮な人びとを増殖させているのだ。

理想の宰相とともに歩むために



 では、如何なる政治家がデモクラシーには求められるべきなのか。 

 安倍首相は、その掲げる政策に政権与党内でも簡単に応じない勢力、たとえば新たな 安全保障体制の構築に向けては公明党、中国投資に積極的な後援財界、そして中韓や財務省に擦り寄る与党議員、といった各派に配慮するために成果が中途半端になりがちであった。それでも自らの目指す理想は捨てずに、その目標に向かい一歩ずつ進めていった(漸進)姿勢は、まさにより多くの人びとの同意 を得ることに努めた証左であろう。メディアの為すただ難癖を付けるだけの批判は幼児にさえできるが、でも、メディアが得意とする威勢のよい変革をただ叫ぶだけの行為では反対勢力の同意を取り付けることなどできやしまい。ましてや、それが大きな変革を伴うものであればあるほど人びとの同意する割合をより上げなくてはならず、そのためには不断に地道に反対者と交渉を重ねることを要するはずであり、だからこそデモクラシーによる「集団的決定=政治」とは、少しずつ修正しながら進んでいくしかない宿命を帯びているのだ。

 よって、理念に向けてこの「地道な作業」をたゆまずに続けてきた安倍首相は、デモクラシーを体現した優れた宰相(政治家)だと思えるのであり、それがゆえに冒頭に申したように思い切った政策が実行されないことで、私を含む 多くの人びとにその成果につい物足りなさを感 じさせてしまうのだ。しかしながら、このデモクラシー制下では理想のはずの宰相を懸命に引 きずり下ろそうとし続けてきたメディアや、その否定的態度に疑いを挟まぬ人びとが、その宰相に代えて如何なる人物を待望するのかとい えば、与党内でも人望がない、つまりは多くの人びとの意志を糾合する能力も意欲も到底欠いているとしか思えぬ候補を推しているように映る現実に、私はデモクラシーの「虚妄」を見てしまうのだ。 

 思うに、人びとは自らが属するそれぞれの社会で反対勢力を含む多くの人びとの合意を得 る「政治」の困難を想像し、あるいはその体験を思い出すべきであろう。さすれば、人びとがメディアに洗脳されることなく、「政治リテラシー」 を身に付けていくこととなり、やがては有能な 宰相を盛り立てていく健全なデモクラシーが現出されるはずなのだ。

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