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グローバリズムと「本能寺の変」

(本稿は、2023/7/5に「不動産経済Focus&Research」で発表した論考です。私が本能寺の再現模型を製作し、また、それを取り上げていただいたTV番組への出演を機に、当時の事変と現代社会とを重ね合わせて考察した内容となります。)【上掲写真は筆者が製作した本能寺再現模型】

 先日、テレビ朝日「謎解き!伝説のミステリー~本能寺の変・黒幕の真相」から取材を受けた。私が当時の本能寺の再現を試み、その模型を製作して「粟田ギャラリー&ライブラリー」に展示していたからだ。それは仕事上での取り組みであったが、研究上の関心もあった。
 
 つまり、この作業を通じて、世間に横行する 「本能寺の変」には明智光秀以外の首謀者がいるとする、いわゆる「黒幕説」には信憑性が薄いこともだが、当時の信長と光秀との対峙の構図は、現代の政治情勢にも見て取れるように推察できるからだ。その私見を述べてみたい。

“城郭”という思い込み

 本能寺というと、一般人に限らず専門家でも事変当時は城郭並みに防御機能が備わっていたと想像する方が多い。京都で徳川家康のように二条城という城郭を築くことをせず、わざわざ本能寺という寺院に宿所を構えたことがそもそも矛盾するのに。また、その現存する二条城は近世城郭としては小ぶりだが、 それと比べても本能寺は1/20 程(120m 四方)しかないのに、である。

 城郭同様だったとの論拠には周囲に堀を巡らせていたことがあるが、ドラマ等での戦闘シーンや、襲撃前の連歌会で光秀が「本能寺の堀は深いのか?」と独り言(ご)ちる場面に影響され過ぎのように思う。幅2~4m深さ1mの堀など子供にも渡れるし、軍隊なら梯子でも掛ければ難なく侵入可能なことが容易に想像できる(二条城でも堀幅20mはある)。

 近年の発掘調査では本能寺跡から内堀跡や瓦が出土したと色めき立ったが、小幅の内堀など防御の役には立たぬし、だいたい狭い敷地に内堀を配置できる余裕などない。中世に隆盛した日蓮宗の本山の一つが本能寺で、俗に“七堂伽藍”というように、宗派によって決められた一揃いの堂宇が存り、一方、信長という貴人の居館は複数建物で構成されていたはずで、それぞれがひしめき合う状態となる。したがって内堀の跡とするのは誤認で、寺院の法会で用いる (捕獲した魚を解き放つための)“放生池”の跡 と捉えるべきだろう。

 また、神社や御所など格式ある建物の屋根に城郭のような瓦葺は用いられない。洛東の知恩院内には徳川将軍の御座所があるが屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、二条城に現存する御殿も創建当初は同様であった。当時の建築様式から信長の居館は(檜皮葺同様に木の皮を用いる)“こけら葺き”と推定され、瓦が跡地中央付近で出土したことは、そこには寺院の御堂があって信長の居館は敷地の片隅に位置したことを物語る。つまり、信長の居館をメインとした「要塞化された寺院」というイメージなどは虚構に過ぎぬのだ。


光秀への信頼とあり得ぬ「黒幕説」

 本能寺跡は100m 東方から5m ほど下がった坂下に位置する。400 年以上前の当時は高低差がより大きかったのではないだろうか。つまり、信長居館を含め本能寺全体は他所から容易に見下ろせるため、“要害”とは真逆な立地にある。

 光秀は織田政権下では畿内の統治を任されており、彼を「近畿管領」と表現する専門家さえいる。つまり、信長は光秀に全幅の信頼を寄せていたからこそ京都での宿泊上の安全にあまり心を砕かなかったとも言える。 だいたい信長は「人、城を頼らば、城、人を捨てん」との言葉を遺している。これは武田信玄の「人は城、人は石垣」、そして居城を構えなかった思想と相通じるものがある。つまり、信長は居城での防衛戦など想定せず、常に領国外に出て戦い、領国内は平和を保つことに努め、自らの居所の防御ばかり汲々と図ることなど顧慮しなかったのではないだろうか。

 信長は平和の使者たる“麒麟”を花押(サイン)に用いたように、領国を広げて日本全土に泰平を及ぼすことを望んだのであり、光秀が足利将軍を見限って信長に仕えたのもその理想に共鳴したからに違いあるまい。そして人物眼に富む信長に最も見込まれていた程の光秀が、天下人の主君を討つという重大な決断に際し、自らの意志に拠らずに黒幕なる他人の言いなりになることなどあり得るだろうか。ましてや怨恨や野望などの私欲をその動機にするだろうか。それは光秀を過小評価し過ぎで、彼には信長と理想は共有するものの譲れない点があり、それをもって自ら決断したととらえるべきように思う。


「グローバリズム」対「民族主義」

 先月、滋賀県がバチカンに捜索協力要請に訪れたニュースが流れた。当時、信長が安土城図屏風絵を描かせてバチカンに贈ったが、それが行方不明になっているためだ。このことからも 信長がバチカン(南蛮)と親密だったことが窺える。よく豊臣秀吉は信長を継承したとされる。たしかに秀吉は当初は南蛮と友好的だったが、 寺社を破壊し、多数の日本人を奴隷として持ち 去る彼らの所業に怒り、バテレン追放令を発し た。また、大陸出兵も明国はじめアジアの植民 地化を企む南蛮(スペイン)を挫(くじ)くために為した との説には説得力がある。

 私が推察するのは信長の「欧米妥協(グローバリズム)」に対峙して、光秀は「国益優先(民族主義)」に拠って決起したことであり、そして、 秀吉は信長路線から光秀路線に切り替えたのではないか、ということである。それは徳川政権に鎖国政策として引き継がれ、幕末には侵略性を強める欧米に対抗するために開国による富国強兵へと進化した。日米戦争は我が国を脅威とみて仕掛けてきた欧米に立ち向かったもので、それに敗れはしたものの戦後に経済的興隆を果たすと、今度は彼らはグローバリズムの名の下に我が国の政治経済への侵食を強め、 我が国益は国民に還元されずに国外に流出し続けている。

 歴史研究を同時代の考証にただ矮小化するのではなく、太古から連綿と世界の中で我が国がどう伍し、国益を護るかが問われてきたのだから、現代に重ね合わせて考えるべきであろう。 今も光秀(民族主義)は、我々が自ら国益を考える必要性を突き付けているように思えるのだ。

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