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神社と政教分離について

(本稿は6年前の平成28年5月18日付「不動産経済Focus&Research」で発表した論考ですが、いま統一教会問題で揺れる「政教分離」を扱って、「信心」から離れていく世相を憂いたものであり、ここに再公表します。)【冒頭写真の左が下鴨神社、右が問題となったマンション】

 式年遷宮の費用捻出

 遷宮費用捻出をめぐって 世界遺産でもある京都の下鴨神社の境内における分譲マンション建設計画が波紋を呼んでいる。先日、その周辺住民たちが当該マンションの開発許可の取り消しを求めて提訴したからだ。

 その発端は社殿を20 年に一度造り替える 「式年遷宮」にある。昨年行われた下鴨神社の「式年遷宮」では何とか費用が足りたものの、 次回の 20 年後の「式年遷宮」では資金調達が危ぶまれることから、神社は世界遺産の地域指定外の境内にあった駐車場用地をマンション・デベロッパーに貸与(定期借地)することで資金を確保していくこととしたのである。提訴した周辺住民たちは、当該建設地が世界遺産を保護する緩衝地帯であり、建設計画では古代の面影を伝える自然林も伐採するため、既成の風致地区条例に反し、「世界遺産の価値を貶める」と主張している。

 許可を与えた行政側は新たな植樹等によってすでに法規上の基準は満たしているとの見解を示しており、これに和するように世間では当該計画地がそもそも駐車場として使用していた境内地だったのだから、今回の施設が「鎮守の森」に調和する建築物ならば景観がより悪化するとの論理は牽強付会(けんきょうふかい)に映るとする肯定的評価が目立つ。また、遷宮費用の捻出問題を無視して「景観」を盾にただ反対するばかりの主張(神社の祭祀をひたすら軽視するものでしかない!)は論外としても、「式年遷宮」での費用捻出のためにマンション建設は致し方ない、とするほか、遷宮の時期を遅らせればよい、とか、遷宮費用をもっと抑えればよい、といった"おざなり″に済ます論評も散見される。しかし、私はこの議論は「景観」という表層にとどまってはならぬと思っており、また、神社、もしくは神社が形成する「文化」に対する社会的扱いにおける根本問題に踏み込むべきように思うのである。

「政教分離」なる呪縛

 今回、提訴した周辺住民たちが反対理由に世界遺産しか口にしないのはおそらく意図があってのことであろう。なぜなら、神社とは私有(と扱われる)の宗教施設であり、本来は周辺住民たちは(氏子や崇敬者といった神社の支援者でもない限り)それにドウコウ言える立場にないはずだ。かの別格とされる伊勢神宮でさえも崇敬者からの寄進が年々減少してい ることから次回の遷宮が懸念されているが、その他の全国津々浦々の神社は(寺院に比べれば「パブリック」に近いからか)拝観料を取るわけでもなく、葬儀や法事、それに墓で報酬を稼げるわけでもないためにその財務的苦境ぶりは深刻で、その経営維持のために境内地を切り売りする神社も後を絶たないでいる。
 
 総じて、この神社経営に大きく立ちはだかる障害は「政教分離」の原則にあり、神社という 「文化」が強引に「パブリック」と切り離されたことにあるのだろう。マンション建設に反対するこの手の運動では地域外の半ばプロの運動家たちが少数の住民たちを先導している場合が多いが、彼ら活動家は「政教分離」を厳格に解釈し、神社には否定的イデオロギーを奉じることが多いがために遷宮費用を自ら寄進するなどはもってのほかで、「パブリック」の補助金を用立てる策を講じるのも嫌うのだろう。だから世界遺産という大義を持ち出すのだ。しかし、ユネスコの世界遺産とは「人類の共有財産」とされているものの、それを名目とした「パブリック」な補助金が出るわけでなく、とくに先進国たる日本は歴史的遺産の保全能力が高いとして自前で「人類の共通財産」を保護すべしとする建て付けとなっている。

 また、日本は神社に対してはたとえそれが世界遺産だろうと「政教分離」を理由として補助金を出すことがないが、それでも下鴨神社はまだマシな方で、国家の「文化財」に指定されている建造物が多いために、その保護の名目で補助金が投入される。今般の熊本地震でも、 前回の東日本大震災でも多くの社寺が甚大な被害を被ったが、「文化財」でもない限りは 「政教分離」によって公的補助は期待できず に再建の目処が立たない社寺が多くある。


「霊性」から「パブリック」へ

 そもそも「政教分離」とは「信教の自由」を保障する制度である。であるならば、世界遺産を盾として、神社の祭祀を執り行う費用捻出のための境内地での施設建築を認めないとしては、それこそ宗教弾圧であり、「政教分離= 信教の自由」の趣旨に反する矛盾が生じるはずではないか。私は「信教の自由」によって神社(神道)を宗教としてことさらに持ち上げたい のではなく、メタ宗教とでもいうべき「信心」が、 地域の社会としての一体性を保つ「パブリック」を支えるものであり、それは地域ごとに存在する神社(鎮守の森)だろうと考えるのである。

 ことさらに世界遺産を賞揚する運動家たちの多くがカブれるマルクス主義とは物質が精神を規定する唯物論に依るが、神社にとっては(後からできた物理的施設たる)社殿よりも、 もともと「鎮守の森」に宿るはずの「霊性」が信仰の対象として重要であった。そして、神社の社殿は遷宮によって生まれたままの「幽玄」、 つまり神秘的な「霊性」を手にいれるのだが、 その「霊性」を理解せずに世界遺産やら「景観」やらを言い立てるのはただの欺瞞である。 神社(鎮守の森)が周辺住民にとっての「文化」、つまり人びとを教化し、一体化させる証(あかし)であることに故意になのか、無理解なのか知らぬが、それに等閑視を決め込んだ浅薄な論争のみが行き交うこの国の言論を、私は危うく思うのである。





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