2024/3/17

今日はなんだか気分がいい。俺は今の場所での暮らしが自分の才能の使い方、俺が本当にやりたいことからズレていることを知っていた。気づいていた。だけど楽しかった。これでなおかつ自分のやりたいことをここで出来るならそんな器用なことはないと思っていた。事実俺なら出来ると思っていた。具体的には、イボガエルのような事を同じように札幌でも、東京でもやって、あんな作品を作っているのに、本人は自給自足とか共生というか自治村というか、そういう世界で生きているらしいなんて、とってもかっこいいじゃない。そう思って自分が楽しくて心地の良い生活に安住していた。いや、楽しくて心地よい生活を否定したいわけじゃない。でもその生活で生まれた演劇作品がイボガエル一作だけというのは、俺にとって創作の最も重要な部分が抜け落ちていた可能性を考えてしまう。俺は自分が心から愉快だと思った時に、それもまた一興だと言える傑作を生み出したし、そういう自信が作るものに宿って奇妙な必然性を帯びると信じている。だけどそれは今の場所にいて前職にいて、あのメンバーで暮らしていて初めて起こったこと。確かに、あの時と同じ状況に戻ったらまたいい作品はできるかもしれないけど、もう戻ることはできない。であればあの時の状況を再現するような奇妙な努力するより、どんどん変えていける未来でまたサイコーな作品を生み出すしかない。もしこれからも演劇をやりたいなら。


今日は気分がいい。なぜか考えていた。なんだか、お風呂に入って、歯を磨いて、髭を剃って、サングラスをかけて、自分の好きな服を着て、歩く自分は普通にカッコよかった。髪の毛も長くてクルックルだけどなんだかこれでいい気がしてきた。自分史上一番ビジュアルがいい時期が来るのかもしれない。今ないのはそんな自分が活動する場所、コミュニティ。それさえあればいい。俺の自信は自給自足じゃない。みんなそうかもしれないけど、人からもらわないと俺は自信を持てないんだ。だから、俺は自分の活動する場所、コミュニティ、それが俺にとっても是非とも居たくて、是非ともそこで認められたいと感じる場所、それが次に見つけられた時、俺にとって次の希望が見つかるのだと思う。そう思うと、俺にとって、今の場所に居て自分のプラスになる時期は人生において一旦去ったのだ。なぜそう言えるか。俺が今や心の中できちんとそれをわかっているからだ。次の場所でポシャったらどうしよう。そんな不安は確かに人生で初めてだ。俺はいつも環境を変えるとき、希望で満ち溢れていて不安なんて考えたことがなかった。高校に進学するときに心からワクワクしていたことを思い出すし大学もワクワクしていた。飛ばすつもりはないけど浪人が始まる一年も俺はそこまでしんどい気持ちになっていなかった。結局飽き性で新しいもの好きだから、新しい生活には否応なくワクワクしてしまうんだ。大学卒業も、ちゃんと就職先があったのもあって全然怖くなかった。そしてそんな職場を辞める時ですら俺は怖くなかった。


そして今。絶望が俺を包んで、俺の今一切の自信は奪い去られているが、それでも新しい場所での新しい生活にワクワクしている自分はいる。そうだろう。これは強がりか? もちろん強がりだと思える瞬間もある。夜寝る前とかいつも辛い。それに年末から自分に起こったことは、怒りも悔しさもあるけど何より今でも悲しい。でも、新天地に用事で行くたびにそれらは物理的に遠ざかり、あまつさえ精神的にも遠ざかっている感覚がある。今の俺なら引っ越しを楽しみにしていられる。さっき歩いているときにそういう感覚になれた。何より俺はまだかっこいい。どれだけ俺に苦しみが降ってきても俺はかっこいいし人間的に素敵。俺はまだまだ自信を取り戻せる場所がある。コミュニティを見つけるだけだ。問題はそれだ。コミュニティを見つけなければ。新しい人たちと知り合わなくては。でもそれも大丈夫だろう。大学に行った時に一回やったじゃないか。今この街に知り合いが一人もいなくて、それでも自分の存在をかけて居場所を作らなければならないという焦燥感に駆られた経験が。それと比べたら今回はなんだ。大学の友達ならたくさんいる。前職の知り合いもたくさん。もちろん今いる場所にだって思い立てばすぐ行ける。俺は一人じゃない。安心して自分の居場所を見つけられる。頑張れ。


きっと今楽しみにしていないことが予期しないほど楽しいことであることだってあるし、今楽しみにしていることが実は自分にとって全くためにならないことだってある。だから特に事前に感情を動かしすぎないことだ。ネガティブになるわけでもなく、事前に期待を寄せすぎない。どんなことも少し引きで見て自分が楽しいと思えることじゃなかったら、事前の期待にしがみついてその場に執着する必要はない。俺は気楽なバイト暮らし。いつだってやめて新しいことを始めたらいいじゃないか。どこにいたって、月に5万を手に入れていたら家はずっとあそこにあるんだ。月5万だ。問題ないじゃないか。インターネットだって最初のカツカツな間は契約しなくてもテザリングでなんとかなるじゃないか。切り詰められるところはたくさんある。ひもじい思いをしなくても消せる無駄は俺の周りにたくさんある。だからきっとあの家は俺にとって飛躍の一番地だ。あそこから俺は飛躍して自分のやりたいことをたくさんできる。別に結果を残したり有名になるためにやることじゃない。行ったらワクワクしそうな方向をかぎ分けて進んでいった先に、都合よく結果が転がっているものなんじゃないか。だからきっとうまく行く。なぜなら鏡を見てみろ。お前は素敵。


今回の絶望。さっき歩いてて思ったよ。絶望に程度はない。ちょっとした絶望なんてない。これくらいにしてやろうと手心を感じるものは絶望ではない。絶望はいつだってどうしようもない奈落で、未来を感じさせないどこまでも真っ暗な絶望だ。世界が見えなくなってまともな判断ができなくなることが絶望だ。そうでない絶望など存在しないのだ。つまり、今俺を襲っている絶望は本物だ。俺自身は本物か偽物なのかわかったものじゃない。でも、今、心から胸を張って言えるじゃないか。今俺にあるのは本物の絶望だ。俺はこれを喜ばないといけないんじゃないか。偽物の絶望からは偽物の希望が、本物の絶望からは本物の希望が芽吹く。であるならば次に俺が掴む希望は掛け値なしに本物の希望。そしてその希望を掴み取った俺は本物なのだ。だからここで俺はこの絶望に感謝して、そこから何か、血まみれの何かを掴み取らなければならない。

この絶望は本物。だからこそここから這い上がることに意味がある。這い上がれ。そして、絶望にやられすぎて、その先にあるものが本物か偽物かなんて考えられない状態をなるべく維持して走れ。きっと、前の、陽気な自分に出来たようなことを俺は今失っているし、本物の絶望にしてやられている間中、俺はそれを失う。でも考えてみろ。お前はそれを完全に偽りの自分によって成し遂げていたか。違う。これまでのお前もまごうことのない本物のお前なのだ。ということは、きっとこの深い森を抜けた先には、そういうお前とも再会できるはずだ。しかも前にはなかった人生の酸い甘いをしかと味わって得た、さらに魅力と経験を増したお前だ。お前はそうなれる。だから、つかの間自分がこれまでの自分でないことにクヨクヨしてはいけない。

俺は今クヨクヨしているからこういうことを書いている。自分を鼓舞するためにこう書いている。これは、俺がこれからしっかりと生きていくために必要な鼓舞なのだ。この希望にまみれた一連の言葉たちは俺のためになる。そうやってこれまでも生きてきたじゃないか。お前はお前が心の底から納得できる、はたから見たらよくわからない言葉を心の底から一番のモチベーションに変換して楽しい気持ちになってワクワクできる。お前はそういう人間だ。この三ヶ月、お前のよくないところばかり指弾してきた。でもそれももうここまで。きっと引っ越すまでの数日。お前にとって心地の良い時間ではありえない。でも、大丈夫。大丈夫だから。お前の先にあるのはワクワクして仕方ない未来。そして俺は自己実現をしてしてしまくって、それがお前にとってこの絶望に対する一番の復讐だ。お前をこうした全ての奴らへの復讐だ。お前にとっての復讐はそれしかない。時間をかけても忘れるな。復讐したい気持ちを捨てる必要はない。お前がワクワクできる未来を掴み取る追い風になるうちは心の中で飼い慣らしておけ。そしてもはやそれが用をなさない、必要のないものだと感じた時に、ドブにでも捨ててしまえ。復讐心なんてそうやって使うほかないのだ。


今は16:57。ミスタードーナツにいる。ラーメンを食べてからここにいる。昨日もこういうことをした。昨日は財布を持っていなくてラーメンを食べられなくて、翌日こうやってもう一度トライする自分を愛せ。いいじゃないかそれくらい。他人にはいつもそういう感じじゃん。自分にも許せよ。いや、あんまりやりすぎるな。自分には厳しくいる方が良い。


あと忘れないように書いておく。今日のお前が気分がいい理由、多分早起きしたからだぞ。これからも出来るだけ早く起きて太陽を長く感じろ。一日にいろんなことをしろ。そうすればお前の心はきっと安んじる。一人暮らし、楽しみだな。しっかり楽しめよ。なあ。

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