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子どもに嫌われるための哲学~生活編~

先生:はい、それでは本日の授業を終わりにします。皆さん、自然環境に配慮した生活を心がけていきましょうね。

生徒:先生!質問があります!昨今は二酸化炭素の排出や、海洋プラスチック汚染が話題になっていますが、私たちはこのままでいいのでしょうか。計画的に物を買ったり、自然に配慮している電力会社を選ぶとか、そんな生ぬるいことでいいのでしょうか。世界には飛行機にかたくなに乗らない活動家がいるように、もっと自然環境を配慮したラディカルな活動が必要なのではないでしょうか。大人たちは何も考えていない!!

先生:ごもっともだと思います。それでは反論としてもラディカルにいきましょう。例えば、人類なんて滅亡すればいいじゃない、という世紀末的な主張もありますが、これに対してはどのように答えますか?自然環境に配慮して自殺した人はいるんですかね。

生徒:その反論はずるいですよ。私は死にたくはありません。それに、他人の命も奪いたくはありません。自分や他人は生きたまま、自然環境も守りたいのです。アマゾンの熱帯雨林や、海の水鳥や、北極の白熊なんかを守りたいのです。

先生:私たちの能力は有限なのだから、何かを得れば何かを失います。例えば、私たちの生活レベルを江戸時代などに戻せば、自然環境に対する影響は現代のような不可逆的な深刻さには至らないでしょう。でも、私たちはなぜ世界を今すぐ江戸時代に戻そうとは言わないのでしょうか。

生徒:今の生活を変えたくないからでしょうか。

先生:それもそうですが、根はもっと深いですよ。少なくとも現代医療が大衆に提供されているようにはいかないでしょう。病や怪我の苦痛は増大し、寿命は短くなり、命はより救えなくなるでしょう。飢饉もたびたび起こるかもしれません。圧制が敷かれ自由が奪われるかもしれません。世界が今より不幸になるかもしれません。その犠牲者はあなたの家族なのかもしれません。それでもいいのですか?

生徒:だからと言って何もしないのは間違っていると思います。

先生:そのとおりです。ただ、環境問題に限らずあらゆる問題は古来より存在しています。私たちは長い間、革命や反乱が起きない程度、許される限り全力で、負担を弱者や自然環境に押し付け、身の回りの人間の負担を極小化する政治を選んできました。現代でいえば、医療用の樹脂も石油からできているでしょう。あなたの安価なランドセルはバングラデシュの人と環境を汚染しているかもしれません。低所得層の低賃金によって安価なサービスを享受しています。身の回りに奴隷こそいませんが、奴隷的な人はたくさんいます。私たちはずっと昔からその選択をしてきました。見て見ぬふりをしてきました。力あるものは自分の命をできるだけ削らずに、より物言わぬ何ものかに犠牲を押しつけてきました。そのことを知らない大人なんていません。もし知らないならそれは大人ではありません。大人は自分のことを悪人だと知っています。そして、子どもは自分たちが悪人の社会にいることに気づいただけなのです。

生徒:先生は自分が悪人でもいいのですか?私はいやです。

先生:私は私自身の快苦を一番気にしますし、次には身の回りの大切な人、余裕があれば一生で一度も会わない他人や身近ではない自然環境も配慮します。より近い未来をより気遣い、より遠い未来はより気遣いません。でも、これはそれなりに多くの人にとって真実ではないでしょうか。例えば、自分が苦痛を伴って稼いだ給料を自分の苦痛をさらに増大させるためには使わないでしょう。自分の家族が苦しむためには使わないでしょう。仮にそういう人がいたとしても、その人は人類を幸福にできても、自分や自分の子どもを幸福にはできないでしょう。善人かもしれませんが私はそんな親はまっぴらごめんです。

生徒:でも、自分の満足を少しだけ我慢して、他を配慮することは可能だと思います。

先生:確かにそれは可能でしょう。もっとも、それは我慢ができる程度に余力のある幸福な人の仕事でしょう。そして、少しの我慢に耐えうる幸福な人がこの世界にどれだけいるのでしょうか。いや、案外多いのかもしれません。ただ、あなたの今現在の余力のある幸福な生活は、多くの不幸によって支えられている事実を忘れないでくださいね。そして、もしあなたが他に尽くせば、一定程度あなたの幸福が減じられるということも。もちろん、私は今の社会がこのままでいいとはこれっぽっちも思いません。それでも、あなたに知ってほしいのは、今の社会が成立するには過程があり、悪人の社会にもその悪に支えられている命や生活が確実にある、ということなのです。そこから始めなければ、あらゆる問題は解決できません。なぜこの美しくない社会が人間によって営まれてきたか、その謎がわからなければ、問題の解き方など思いもつかないでしょう。解くべき問題をよく知ることが、解法を導く最低条件なのです。

生徒:社会は人が作ったものなのだから、謎なんてないんじゃないんですか?作った人がいるのなら、すべてが明快なはずじゃないですか。

先生:実のところ、私たちの社会は一部の政治家や学者などの偉い人が定めたルールや概念に従って営まれているのではありません。一部の偉い人はすでに社会に存在していた様々な概念やルールを整理し、選択し、改訂して運用しているにすぎません。だから、問題と答えが書いてある参考書は存在しないのです。私たちは常に正しい概念やルールを模索しています。模索が必要なのは、偉い人ですら正しさを後から発見せざるをえないからです。概念やルールは誰かがトップダウン的にあてがってくれたものではないのですよ。私たちはその正しさを、まるで物理法則を発見するように、探究し続けなければならないのです。「平等」も「正義」も「人権」も、その意味や適用対象が絶えずアップデートされています。

生徒:私たちは進歩しているのでしょうか?

先生:わかりません。それを知るには世界を外側から見渡さなければなりませんが、人間には不可能です。哲学的にいえば倫理的なことがらは世界を「超越」しているからです。ただ一つだけ言えることは、私たちは誰でも自分の目的にかなったよりよい世界に住みたいと思っている、ということです。これは世間で運用されている道徳的な意味ではありません。泥棒でさえ、泥棒としての技量を高めなければいけないように、私たちは生きている限り自分自身を含めた世界を改良するように設計されているのです。その累積がこの社会を作り上げているのです。まずはその事実を知るところからはじめてみましょう。

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