この世界に絶対なんてないよ ウィトゲンシュタイン「倫理学講話」
はじめに
ウィトゲンシュタインは、私たちの理性が何をどこまで語りえるか、意味のあることを語ることが許されるのか、限界設定を目指した哲学者である。
『論理哲学論考』に代表される前期は、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という有名な一文で終わる。
『哲学探究』に代表される後期は、語りえる射程を無際限にとることによって、語りえない限界の外部については文字通り語られなくなった。「語りえない」とも語られなくなった(もちろんこの一文は語りえているのだから、語りえないものは文字通り語られていない)。
このnoteでとりあげる「倫理学講話」は比較的マイナーなテキストである。前期から後期へ向かう中期に行われた講演である。「限界の外部」に位置づけられるものがどうして成り立たないのか、前期の立場からシンプルに記されている。彼のメインターゲットは「絶対的な価値」や「倫理」と呼ばれるものだ。
相対的価値と絶対的価値
まず、ウィトゲンシュタインは価値を、相対的な価値と絶対的な価値にわける。
相対的な価値とは「あらかじめ期待されている基準」を意味する。例えば、「よい椅子」とは、座り心地など、あらかじめ求められる機能を十分に保有していることを意味する。
相対的な価値は、その椅子がもっている具体的な性質に言い換えることができる。例えば、足の高さが50cmであるとか、座面には適度な柔らかさあるとか等々。あらかじめ設けられた任意の基準に達しているかによってそのよしあしが判明する。
一方、絶対的な価値とは何か。ウィトゲンシュタインは「倫理的」とも呼ぶが、ウィトゲンシュタインのあげる例は以下のようなものである。
ウィトゲンシュタインは、絶対性の例として「唯一の絶対に正しい道」が一体何を意味するか考えることを聴衆に促し、そして、論理的必然性をもって行かなければならいない道か、行かないことを恥じる道であるという。注目するべきは、ウィトゲンシュタインが論理的必然性という強いレベルの絶対性を倫理にも要求していることである。論理的必然性といえば、それを前提としなければ、およそ思考が成り立たないような、最も強力な必然性だ。
そして、絶対的善について、以下のように改めて定義する。
さて、ウィトゲンシュタインは人の精神状態を含む世界の諸事実の命題をすべて含む一冊の本の存在を仮定したとしても、その内部には相対的な価値判断を可能にする命題しか書かれておらず、絶対的な命題は含まれないという。
だが、なぜ椅子のよしあしが世界内の事実に含まれる一方で、倫理的な善悪は含まれないのであろうか。
ポイントは、椅子のよしあしは、あらかじめ椅子に求められる性質に言い換えることができ、倫理的な善悪(例えば嘘をつくことが悪であること)はできない、ということにある。
ウィトゲンシュタインのこの主張に反し、永井は以下のように指摘している。
永井はウィトゲンシュタインが絶対的と見なした「嘘つきは悪である」という命題を、社会維持にとって不都合であり、嘘つきが市民として求められる基準に達していないという点で、椅子における価値判断と同じレベルに見立てることが可能だと言うのだ(ただし、返す刀で絶対的な価値判断(命題)に仕立て上げることも可能だとも説明しているが。)
ここで、重要なのはウィトゲンシュタインの倫理的な例示が絶対的なのか相対的なのかの論争をすることではなく「一般的に、絶対的な命題がなぜ無意味なのか」についてだ。それは無意味な命題が共通にもっている特有の構造があるからなのだ。
何かが何かであるのは、そうではないことを想像できるから
ウィトゲンシュタインは、有意味な命題に必要な構造として「そうでない特定の状態が想像できること」をあげる。ある命題が有意味ならば、そうでないことも可能でなければ理解できない。
ウィトゲンシュタインがあげる絶対的な表現の例として、「世界の存在に驚く」「絶対に安全である」「罪を感じる」があるが、いずれもそうでない可能性を想像できない。
「驚く」には本来対比される可能性が必要である。大きい犬を見て驚くのは、より小さいサイズの犬と対比して驚くのであり、対比するべきものが無い状態で驚くことはできない。
世界が全くの無であることを想像することは不可能である。もし、世界の存在に何らかの驚きを感じるとすれば、それは現実の世界とは異なる世界の状態(例えば、お気に入りのカップがない世界や、異なる物理法則が成り立っている世界)を想像しているのである。
また、「安全」は危険な状態の対比のもとで理解され、何が起こっても絶対に安全であるということではない。路上はバスの往来があり危険だが屋内は安全であるとか、一度百日咳にかかったから二度かかることはないとか、そういった条件付きの安全を指す。
「罪を感じる」のは、特定の行為、人が罪であったり、罪でなかったりする可能性のもとで理解される。ウィトゲンシュタインはある行動が罪でない可能性が想定できないような、倫理的な罪を想定している。
このころのウィトゲンシュタインは、「命題の意味は、その命題の検証の仕方である※1」と言う。いわば、命題を、事実が成り立っているかの真偽判定の物差しととらえる検証主義的な立場をとる。
例えば、「多摩川の上流で雨が降っている」という命題は、真か偽のどちらかでありえる。実際に雨が降っていれば真、降っていなければ偽となる。命題は、事実としては成立していない他の可能性が常に開かなければ、検証の意味をなさない。
そして、検証が意味をなさないような命題は、命題が最低限持っていなければならない要件を満たさない。その最たるものが、絶対的な命題なのである。偽である可能性が想定されないような命題は、世界内部の事実の真偽判定の役に立たない。
あるいはこうも言う。
したがって、倫理に限らず、同様の絶対的な命題は押しなべて無意味なのである。ウィトゲンシュタインは、例えば、デカルト的な実在の懐疑に対して以下のように言う。
絶対的な価値について語ることができないことを、そして、さらに一般化され、あらゆる種類の絶対性について語ることができない。可能性が開かれていない命題は無意味なのだ。では、なぜ「倫理学講話」という名称なのか?なぜウィトゲンシュタインは絶対性一般についてではなく。倫理について語ったのか?
それは、ウィトゲンシュタイン個人にとって、倫理こそが、その超越性、絶対性の好例であり、ウィトゲンシュタイン自身の心性を示すエピソードだからである※3。何に絶対性を感じるかは、その人がどのような神話(形而上学)を生きているかによるのである。
※1:ウィトゲンシュタイン全集5 黒崎宏、杖下隆英訳「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」352頁 大修館書店(1976)
※2:永井均『ウィトゲンシュタイン入門』102頁 ちくま新書(1995)
※3:永井均『ウィトゲンシュタイン入門』101頁 ちくま新書(1995)
参考文献
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