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偶然のありか 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』第二章 自由意志 Part1

前回の記事では分岐問題への応答をまとめた。分岐問題を回避しつつ、歴史が可能性から選択されるという世界観を保つためには「偶然」が必要となる。本記事ではその「偶然」とは何か、その内容を追っていく。

「偶然」のありか

これまでの論点から、歴史を分岐するものと見立てるためには「偶然」の存在を認める必要があるが、青山は「偶然」の実在についてはわれわれの認識的な限界から中立的な立場をとる(われわれが無能なため偶然に見えるものと、本当に偶然であるものの区別が原理的につかないため)。よって、今後は「偶然がもし実在するなら何が言えるか」と、仮言的に論じていく。

さて、偶然がどこかに存在するとすれば、いったいどこがふさわしいのだろうか。

考えられる候補としては、分岐点の上、というものだろう。分岐点の上にあるということは、「関ヶ原の戦い」や「〇年×月△日の昼食にそばを食べること」などと同様に世界に存在する出来事の一種と見なすことになる。

だが、この想定はある困難を招き入れる。

――分岐点上のあらゆる出来事は両方の歴史に含まれるのだから、一方の歴史を選ぶ役には立たない――。同様に、歴史Aと歴史Bの分岐点上にもし偶然を置くなら、それは歴史Aにも歴史Bにも含まれていることになるが、その同一の偶然は歴史Aにおいては歴史Aが選べるような、歴史Bにおいては歴史Bが選ばれるような働きをしなければならない。偶然が自己同一性をもったものであるなら、この要請に答えることは難しい。『時間と自由意志 自由は存在するか』90頁

これは分岐問題を導入した際に見た困難と同様である。改めて見てみよう。

例えば、一見、歴史を選び取っているように見える「病院に行こうという決断X」という出来事は、実のところ「病院に行く歴史A」にのみ存在するべきであった。よって、決断Xは分岐点の上には存在できず、分岐後の歴史Aのみに存在する。

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決断Xのみならず、あらゆる出来事は一つの歴史にしか属さない。よって、分岐点上で一方の歴史を選び取る位置にはない。それは、出来事と見なした偶然であっても同じことだ。

むしろ、「偶然」が意味するところは、原因となる出来事のなさなのだ。決して、偶然が歴史を選択し、後続の出来事の原因となる、という意味ではない。たんに、分岐が存在し、そのうちなぜか一つが現実となるということ自体を偶然と呼ぶのだ。

※そもそも、分岐問題を回避するために「偶然」を導入したのだから、偶然が出来事と見なせないのは当然と言えば当然だ。

なお、自由意志説(分岐を選択する自由意志が存在するという説)の幾人かの論者は、分岐問題を回避するために、「垂直的な」因果(分岐点における通常の因果系列(時間系列)に直交する因果)という図式を持ち出すが、青山はそれが目くらましでしかないと切り捨てる。

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この場合の自由意志は、因果系列内・時間系列内に存在しないまま、いわば無時間的に因果系列・時間系列に影響を及ぼす矛盾的な離れ業をやってのけるわけだが、もはやそれは時空を時空の外から創造した神と区別がつかないだろう。それは私たちが見知っている時間的な因果とは異なるものであることは言うまでもない。

次の記事では青山の「偶然」に対する再評価を追っていく。

※参考文献『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

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