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偶然の価値と自由 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』第二章 自由意志 Part2

前回の記事に引き続き、本記事では自由意志を偶然の一種とし、偶然を自由の担い手として再評価する青山の試みについて見ていく。

「偶然」の価値

青山は一般的な「偶然」に対する評価を以下のように説明する。

われわれは「偶然 chance」あるいは「運 luck」といった語に、ある先入観をもっている。「たんなる」といった修飾を付けずとも、それらを価値のない「たんなる」ものとして見てしまう先入観を。『時間と自由意志 自由は存在するか』109頁

偶然は自由の担い手としてふさわしくないという反発は、偶然が自由意志とは無関係であるとする直観的な反発である。

日常風景で考えてみよう。苦労して志望校に合格した受験生や、たゆまぬ努力によって甲子園で優勝した球児たちに向かって、「その結果はたんなる運だ」と言える人は少ない。

あるいは、家族を事故で亡くした人や、いじめにあった子どもの親に、「その結果はたんなる偶然だ」と言える人は少ない。自由が偶然によるものであったら、加害者の責任を追及できるのだろうか。

このように偶然を自由の担い手にしてしまうことは、社会を無秩序にしてしまう懸念がある。

だが、青山は偶然の射程を幅広くとることを勧める。偶然とは、サイコロやくじ引きのような、人間の意図を寄せ付けないものに限定されるものではなく、いわゆる「性格」などもその範疇に収めることができると言うのだ。詳しく見ていこう。

「たんなる」偶然と「意図的な」偶然

まず、通常考えられる偶然を再考してみよう。その後、「性格」などについて、通常の偶然と同様に定義づけられるか考えてみよう。

例えば、サイコロは正多面体である。ギャンブルの天才ではない人がふる場合は、出目を意図的にコントロールできない。同じ投げ方をしても違う目が出るし、違う投げ方をしても同じ目がでることがある。この上で、異なるはずの個々の試行を同一のものと見立て、膨大な回数の試行をすると、出目の割合はどの目も等しい値に近似する。6面であれば1/6に近似する。これが確率の考え方である。各試行における出目は「たんなる」偶然とされる。

サイコロが「たんなる」偶然に見えるのは、私たちが出目を意図的にコントロールできないことによる。つまり、人間の意図が介在しない種類の偶然に見えるからだ。いわゆる“五分五分”、“当たるも八卦当たらぬも八卦”というわけだ。

しかし、(これは青山の例ではないが)ダーツが上手い人は意図した場所に矢を投げて高得点を取ることができる。一般に、これは偶然とはみなされない。一方で、ダーツが下手な人が高得点を取ったとしても、意図してコントロールできないため、偶然とみなされるだろう。言ってみれば、サイコロから意図が除去できるように見えるのは、私たちの大半がサイコロをうまく投げられないだけなのだ。

だが、ダーツが上手い人であっても、100%狙ったところに投げられるわけではない。正確に表現するならば、ダーツが上手い人は、あくまで偶然のもと、意図した場所に矢が刺さる確率が下手な人より高いのであって、偶然の範疇を出るものではない。言ってみれば「意図的な」偶然なのだ。

もし、私たちがギャンブルの英才教育によりサイコロの出目をある程度コントロールできるようになれば、サイコロはダーツ的な競技となり、出目の確率は各面で等しくはならず、偏ったものになるはずだ。

これが「たんなる」偶然と「意図的な」偶然の差だ。偶然であるという点で同じであり、本質的な違いはない。

人間の意図を確率的偶然と見立てる

では、人間の意図の反映とも言える「性格」や人間一般の行動特性はどうであろうか。

まず「性格」から見てみよう。

ある人物の別々の時点における行為を集積した場合、そこにはしばしば何らかの法則性が見られる。いわゆる「性格」と呼ばれるのがそれだ。自分や他者が「性格」をもつ以上、いまから自分が何を行ない、他者が何を行なうのかが、まったく分からないということはない。前掲書112頁

「性格」は、個々人の行為のうち、どの行為を実行する確率が高いかと定義できる。パーティーでいろいろな人に話しかけるのか、部屋の隅で一人でワインを飲むのか、パーティーそのものに行かないのかは、どれも性格の差だが、いつでも決まった行動をとるわけではない。

例えば、A氏が過去招待された結婚式に出席した割合は30%だとしても、次回の結婚式に出席するか否かはわからない。このことが非決定的な行為、分岐と選択される歴史を司ることになるのだ。

次に行動特性をみてみよう。

確率的偶然のもとで行為する人間は、でたらめな乱数の操り人形ではない。なぜなら確率的偶然の場合、個々の事例は非決定でありながら、事例の集団は法則的(まさに確率的な)をもつことができるからだ。こうした集団的法則性は、人間を完全な無秩序から救い出す手助けをしてくれる。前掲書111頁

たとえば、目の前で交通事故が起こったことを想像してみよう――あなたは、恐怖を感じて冷や汗をかきながら、周りに人がいないため救急車を呼ぼうと携帯電話を手に取る――。この行動をとる人はおそらく多い。だが、一部の人は恐怖も感じず、面倒がってその場を立ち去るかもしれない。

この行為選択の結果はでたらめな「たんなる」偶然ではない。人間の行為は確率的に表現できる。例えば、心理学実験を実施し、定量化することも可能だ――例えば、80%の人が救急車を呼び、15%の人がその場を離れ、5%はその場で立ちつくす、等々――。

このように意図を伴う行動を偶然の範疇に置くことは可能なのだ。

※参考文献『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

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