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お正月は本当におめでたいの?~子どもに嫌われるための哲学~

先生:明日から冬休みですね、年末年始はいろいろなイベントがあると思いますが気を付けて過ごしましょうね。また来年お会いしましょう。

生徒:先生!質問があります!少しお時間よろしいでしょうか!?

先生:クッション言葉を使うなんて高度なテクニックを覚えましたね。でも、先生の師走は忙しいのですよ。よろしい、一つだけ質問を受け付けましょう。

生徒:ではさっそく。冬といえば、クリスマスや大みそかやお正月など、いろいろな行事ありますよね。その日ごとに、にぎやかな雰囲気だったり、おごそかな雰囲気になる気もしますが、そんなの錯覚ですよね?

先生:どうしてそう思うのですか?

生徒:だって、特定の日付に特別な価値なんてないですよね?暦は、ある特定の天体の配列を意味しているだけで、それ以上でもそれ以下でもないと思うんです。特定の日付に想いを寄せるのは、人間が勝手に読み込んでいる妄想なのではないですか?そもそも、物理的な空間としてこの世界を捉えるなら、地球の自転を1日とみなす単位だって、365日を1年とみなす単位だって、人為的な創作物でしかないですし、ましてや、1月1日や、ある人が生まれた日を、他の日と比較して特別扱いするのは、物理的な存在以上の霊的なものを信じていたり、占星術を信じていることと等しいですよね?でも、多くの人は占星術をそれほど信じていないにも関わらず、正月や誕生日を特別な日と見なしていますよね?私は、ある特定の日を特別なものとしてみなすことは正しい認識とは思えないです。

先生:なるほど。言いたいことはわかりました。たしかに、そういう見方もできますよね。物理的な空間に、正月やある人の誕生日にお祝いムードを発生させる物質や、13日の金曜日を暗黒にする波動は観測されていないでしょうからね。そもそも、毎日誰かの誕生日ですし、誰かの死没日でもあります。そうすると、客観的にみれば、ハレの日とケの日の区別もなくなりますからね。

生徒:ということは、特定の日を特別扱いすること自体間違っているということですか?大掃除をしたり、お年玉をもらったり、おせちを食べたり、初詣に行くことが無意味ということですか?

先生:いや、それは言いすぎですよ。物理的に世界を眺めればそういうことも可能、という程度で、無意味というわけではありません。そもそも、世界が完全に物理的であるということ自体も、本当に正しいことなのか、誰にもわからないですからね。

生徒:どういう世界を信じるかは人それぞれということですか?だから、みんな好き勝手に何かを信じればよい、ということですか?

先生:いや、それも言いすぎだと思いますよ。どちらかというと、「信じる」ということは、「正しさ」の探究とは無関係のもので、正しくないかもしれないからと言って捨て去るべき代物ではないのです。いわば、「正/誤」で判断するべきものではないのです。信じている内容が、生活を円滑にするならば信じられ続けるし、円滑でなくなれば単に疑われるだけの話です。多くの人にとって、誕生日を祝ったり、お正月におせちを食べることは、社会生活上メリットがあることなのです。「信じる」ということは、生活を円滑にするために必要なことであり、もっぱらそれ以外の機能はないとすら言えるでしょう。あなたが、この世界は神に愛されていると感じているとして、その愛が実際の生活上で整合的に感じられるなら疑うことなどしないでしょう。逆に、不幸が続いたりしたときに、この世界は神に愛されていないのではないかと、疑い始めるのではないですか?それは、生活が円滑でなくなったから疑い始めたのです。もし、円滑だったら思いもよらなかったことでしょう。

生徒:何が正しいかが重要なのではないですか?

先生:もちろん、そういった生き方もよいでしょう。でも、「正しさ」は生活とはまったく別ものです。「正しさ」は信仰に依存せず、誰がいつどのように考えても正しい知識の集積です。裏を返すと、誰がいつどのように考えても正しいとは言い切れないことは、信仰なのです。そして、生活における行動の判断は、この信仰によって行われている。いわば、実践的な知識なのです。やってみればわかりますが、誰がいつどのように考えても正しい知識だけで生活することはまず不可能です。おそらく、あなたは指一本動かすことができないでしょう。ラプラスの悪魔でさえ、世界が完全に物理学的である前提に立った信仰の下でしか、その完全性を発揮できませんしね。自由意志が存在する可能性を考慮すると、ラプラスの悪魔でさえ、指一本動かすことができなくなります。

生徒:ちょっと難しいです。ラプラスの悪魔でさえ不完全だなんて言ったら、誰がいつどのように考えても正しい知識なんてあるんですか?

先生:ほんのわずかしかないでしょうね。でも、それは確実にある。あると考えなければ、およそ思考することや、世界そのものが存在できなくなる、そういう知識ですね。そういった知識こそが、哲学の領分なのです。

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