見出し画像

入不二基義『現実性の問題』「現に」という現実性

はじめに

以前所感を書き別noteで円環モデルを紹介した入不二基義『現実性の問題』を読み解いていく。

本noteでは本丸である「現実性」について考察していく。とりわけ、「可能性」との連関に限定した「現実性」にフォーカスする。前回のnoteで提示した超簡易版の円環モデルのうち、以下図のとおり赤点線の箇所が射程範囲である。
※なお、次のnoteでは図中左下の「潜在性」との連関における「現実性」を取り上げる。

本noteで紹介する「現実性」の射程範囲

「現実性」の三つの水準

まず、「現実性」を三つの水準にわける。本書で登場する例文で三つの水準を以下で紹介する。本noteでフォーカスを当てるのは(1)である。

(1)現にソクラテスとは哲学者である
(2)この現実世界において、ソクラテスは哲学者である
(3)ある可能世界において、ソクラテスは哲学者である

同書61頁

(2)、(3)の対立関係にも重要な議論が含まれるが、ここでは取り上げない。本noteの眼目は(1)を正確に理解することである。

簡単に解説だけ加えると、(2)は可能世界意味論における、現実主義的な描写であり、(3)は可能主義的な描写である。(2)、(3)いずれも、可能的な世界の存在(様相概念)を前提にしたうえで、特定の世界が「現実」であるという主張している。(2)は、この世界こそが唯一真正の現実世界であり、そのほかの可能世界が仮にあるとしても、この現実世界より低位の水準で存在するに過ぎない、という現実主義的な描写。(3)はあらゆる可能世界は、それぞれの可能世界にとっては現実世界である、という描写である。

円環モデルにおける(1)~(3)の位置

「現に」という現実性

さて、「(1)現にソクラテスとは哲学者である」と例文で表現しうる「現実性」とは何か。入不二は「現に」を純粋現実性と呼び、否定される可能性がない端的な「力」だと述べる。

理解を進めるために、試みに、「現にソクラテスは哲学者である」の否定文を作ってみよう。入不二は、「ソクラテスは哲学者であるのは、現にではない ・・・・(現実ではない ・・・・)」という、少々不自然な例文を提示する。この例文の眼目は、「ソクラテスは哲学者である」という内容に対する否定ではなく、「現に」という副詞を直接否定する語順で作られた例文を提示することだ。

この例文から示唆されるのは、「現実性+否定=現実性の無」ではないということだ。「現に」に否定を結合したとしても、否定の対象は「ソクラテスが哲学者であること」と読める。否定されるのは現実性ではなく、記述される内容に過ぎない。

また、「現に」という現実性自体には記述される内容はなく、存在者としての輪郭もない。「ソクラテスが哲学者である」という記述には内容がある。また、「現実世界が存在する」という記述には、特定の世界を指し示す個物としての輪郭があり、いずれも可視的である。しかし、「現に」は、内容や輪郭から独立してまったく透明であり、それがゆえに不可視的存在なのである(67頁)。入不二はこのような存在形態を「力」と呼ぶ。円環モデルの中には記述されずに、円環の外から円環に作用するような存在者として想定されている。

円環モデルの外から差し込む「現に」という力

本書の入不二の表現ではないが、デカルトが『省察』において方法的懐疑の果てに見出した「コギト」にも、この「現に」という働きが垣間見える。徹底した懐疑においては、あらゆる内容の真理性がはく奪される。しかし、もしすべてが誤りであろうとも、考えていることそのもの、感じていることそのものは否定しきれないものとして、深い闇の中から取りだされる確実な存在なのだ。この発見が意味するところは、「現に」存在するものは、それが仮に真理性を欠くようなものであろうとも、否定され得ず存在するということだ。その確実性は、記述された内容や指し示される個物としての輪郭からもたされるのではなく、「ただそうであること」「現に存在すること」からもたされるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?