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忙しいということ

 今僕には仕事がある。生憎その仕事は本日(本日というのは8月の19日のことだ。)までの締め切りで、しかも金曜ロードショーの『となりのトトロ』も終盤に差し掛かるこんな時間になっても未だ終わっていないと来ている。そんな時にこうして3ヶ月ぶりに他愛もない記事を書こうなんて何を考えているんだと言われればそれまでで、実際僕の上がりを今も待っている制作さん(という、作業のスケジュール管理や各部署の成果物の提出を管理するポジションの方が、僕らの仕事にはいる。本当に彼ら、彼女たちには僕は頭が上がらないのだ。)にとってみれば、こうして仕事をサボってツラツラと物書きに興じている人間は腸が煮えくり返るような存在であることは間違いなく、そしてその件に関しては言い訳のしようもなく100パーセント僕が悪い。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなのだ。本当に。

 しかし僕の性格は困ったもので、何故かこういう忙しい時に限って、どういうわけか全く仕事に関係のないことに興じてしまいがちなのだ。実際、昨日の夜くらいから、僕はずっと家の部屋で自室に篭りきりで仕事をしていたのだけれど、(つい数ヶ月前から、僕は在宅デビューしたのだ。)、今日の午前九時くらいからだろうか、すっかり夏らしい青天から降り注ぐ陽の光を窓越しに浴びていた僕は、ふとスマホのメモ帳を取り出すと、そこに記されていた映画のタイトルを文書に書き起こし始めていた。そのメモは、映画館やサブスクを問わず、今年に入ってから見た映画を鑑賞順に並べていただけの簡素なものだったのだけれど、気づけばその作業はエスカレートしていき、
「この映画の監督の映画は他にこの作品を見たな」
「この作品のシリーズはこの作品を見たな」
「この作品の主演の俳優さんの作品なら確かこれを見たな・・・」

などと考えているうちに、メモの先頭に記入されていた、今年初めて見た映画(ちなみにその作品は『ザ・キングスマン』で、お正月の暇な時間に、いつもお世話になっている立川シネマシティにて鑑賞したものだ)のタイトルから、まるで木の根が枝分かれして広がっていくかの如く、今までの人生で見てきた映画のタイトルが次々と頭に浮かび、気づけば僕は歴代のアカデミー賞やパルムドールや金熊賞受賞作品なんかをwikipediaで調べ始め、その中から見た記憶のある作品をリストアップし、さらに、日頃からよく拝見させていただいている、あらゆる映画を年代順に並べられたある映画批評ブログのページへ飛び、そこに掲載されている数千本の映画のタイトルを、サイレント映画の時代からこの2022年まで隈なくチェックし始めた。(このブログには、アカデミー賞には到底縁のないB級映画まで隈なくけいさいされているので、映画の楽しさを午後のロードショーや深夜放送の映画番組なんかで知った僕には大変助かるページなのだ)こうしてあれよあれよという間に、この人生で見てきた映画のタイトルを全てメモするというこの作業に、気づけば締め切り当日の貴重な時間を僕は5時間も浪費し、そのタイトル数も、ざっと数えてみれば1500本ほどになった。(それでもまだメモしきれていない作品もはっきりあると分かるので、この本数はまだ増えそうだ。)

 さて、ここまで書いて何が言いたいのかというと、それは僕の趣味の一つが映画鑑賞であるということでもなければ、ましてやこれだけの映画を見てきたんだという自慢などでは全くない。(世の映画クラスタの鑑賞本数はこんなものでは済まないのだ)

 僕が言いたいのは、人は、忙しい時に限って、何の生産性もないことにばかり精を出してしまいがちだということなのだ。

 こんなことをしている暇があるのなら、その労力と集中力を、本日締めの仕事に何故回さないのか。そう怒られようものなら、僕には何一つ返す言葉がない。まさに仰る通り、本来仕事に回すべきその5時間分の集中力のリソースを、その通りきちんと仕事に回していたら、もう仕事はとっくに終わっていたじゃないか。いや、仮に終わっていなかったとしても、今よりもっと仕事を進めることが出来たではないか。完成度を上げることが出来たではないか。時間という、仕事にとって最も貴重なリソースを、何故そんな道楽に注いでしまったのか。

 その通りだ。全くもって言い訳できない。

 しかし、人には、殊更僕のような人間には、そうでもしないと仕事にならない時もあるのだ。確かに無駄な5時間だった。無駄な仕事の停止だった。同じように時間を浪費するなら、それこそ仮眠を取った方がよっぽど有意義な時間の過ごし方だったことだろう。

 しかし、矛盾した言い方だけれど、仕事を急ぐためには、時間を無駄にしなければならない時もあるのだ。というか、忙しい時、時間を何一つ無駄にすることなく仕事をしたとして、果たしてどれだけ仕事が進むだろうか。経験上、テキパキキビキビと、無駄の一切を削ぎ落としたような仕事ぶりでペース良く仕事が進むのは、多くの場合は時間の余裕がある時だけだ。今の僕のように、一分一秒を争うような状況に陥ってみようものなら、その黄金のように貴重な時間は、湯水の如く、休憩にもならないような浪費をしなければ、とてもじゃないが仕事を進ませることなどできないのだ。

 無駄なことでも、必要な無駄。

 そんな無駄も、世の中にはあるのだ。

 少なくとも、僕のような、怠け者という素質だけは胸を張って持っていると言えるような、そんな天性のサボり癖と先延ばし癖の持ち主にとっては。


 さて、勢いに任せてこの2000字ほどの文章を書いているうちに、気づけばまた僕は、三十分ほどの時間を浪費してしまった。

 8月19日の終わりまで、あと1時間を切った。

 早急に仕事に戻らなければならない。

 一つの文章を書き終え、ふう、ため息をついた僕は、机の足元に鎮座している鏡月のをほんの一口飲み終えると、再び、仕事道具の液晶タブレットとペンを手に取った。

 せめて、明日の朝・・・夜が明けるまでは、8月19日だ。

 そんな、実に自分に都合のいいような締切の解釈を胸に、僕は再び仕事に取り掛かる。 

 こんな文章を最後までお読みくださった皆様、本当にありがとうございます。

 仕事で疲れた皆様、そして、もし、僕と同じような、救いようのない無残な怠癖の持ち主が皆様の中にいらっしゃって、

「あ、こんな同類もいるんだ。一安心」

なんて、ちょっと心が軽くなったりしたのであれば、こんなに嬉しいことは、僕にはない。