鬱が辛い

鬱が辛いです。躁のときの私と鬱のときの私は全然別人です。
ネガティブなことばかり考えて、死ぬことばかり考えています。今は理性が勝ってて、希死念慮で収まっているけど、この死にたい気持ちはだんだん強まっていきます。私の場合鬱のときは大抵そうだからです。ふわっと「しにたいな〜」と思うことから始まって、いつしか「死ななきゃ」「死んでやる」に変化していきます。そして延長コードを高いところなんかにくくりつけて、輪っかに頭を突っ込んで、でも台座から足を下ろす勇気は無くて、じわじわと首を絞めて、首元が、呼吸が苦しくなって、怖くなってやめます。そして、死ねないから生きなきゃと思い、希死念慮が薄まります。私の人生はその繰り返しです。いつになったら一歩踏み出せるのでしょうか。
ご飯は食べられません、お腹が空くと鬱が悪化します。家事もできません。そろそろ洗濯かごがいっぱいです。部屋も片付きません。ゴミはそのへんに散らばり、出したものは出しっぱなし。用事も済ませられません。シャワーも浴びられません。歯磨きもできません。
つらいです。もうなにがどうしてつらいのかもよくわからないです。死にたいと思いながら生きる生産性のない繰り返しの日々になんの意味がありますか。死ぬのは怖いです。死にたくないけど生きていける気もしません。
どこにも道がなくて詰み状態です。
誰も私を助けられません。
私を助けられるのは私しかいないけど、私は私を助けられません。他力本願寺です。

誰かに褒められても、慰められてもその言葉は私を素通りしていきます。私が嫌だなと思う言葉だけが傷となって私の一部になります。私はその傷ついた言葉を何度も何度も反芻して死にたくなります。これは一種の気持ちの自傷行為なんでしょうか。

死にたいけど死ぬのは怖いです。本当は死なないで幸せに生きたいです。でもそれは無理なので死にたいです。死ぬのは怖いです。死に損なうのも怖いです。私の人生は間違いの連続だったのかもしれないです。生まれてきたくなかったです。

好きって言われても嘘だって思うし、嫌いだって言われたら信じて悲しい気持ちになります。本当は誰も私のことなんか大事じゃないのかもってきもちになります。家族は私のこときっと大事に思ってくれてるけど、私は家族を好きになれません。わかりあえません。

結局死ぬしか解決方法がないのです。近々ロープでも買おうかと思いますが、引っ越してきたばかりで死ぬのも癪です。あんなに引っ越し大変だったのに。だからもう少し新天地で楽しみたいのに、もう死にたい気持ちでいっぱいです。今すぐ死んだりはしませんけど。

死にたい私と死にたくない私がいつも戦っています。死にたい私がいつ勝つか、ビクビクしています。いつ私が私を殺すか、そのことに怯えています。

普通の人ならちょっと落ち込むだけの小さな出来事で私は死にたくなります。一度死にたいと思ってしまうと、常に「死ぬ」という選択が生活に入り込んできます。虎杖悠仁のセリフみたいですね。

死んだらおばけになって、自分のお葬式を見て、誰が泣いてるとか、誰がなんて言ってるか聞いて、そのあとは海に行って深海を泳いだり、サメやクジラと泳ぎたいです。あとはムカつくやつのところに行ってビックリさせてやりたいです。
死んでおばけになれたらいいけど、きっと死んだら何も無いから怖いです。死んだら人間どうなるんでしょう。よく「無」っていうけど想像つきません。怖いです。でも生きてるのもつらいです。

こんなことを延々と繰り返し考えています。

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