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テクテク派閥#04|ナミブ砂漠を眺めながら

僕はいつもどこかで「奴隷」概念とぶち当たる。

同居人は以前から知っていたようだが、ある配信者の動画がきっかけで、ナミビアの国立公園内にある砂漠の水溜まりを24/7でライヴストリーミングしているチャンネルと出会った。ずっと眺めていると、鳥やガゼル、ジャッカル、シマウマ、ヌー、キリン、ゾウさん、、、とかが水を飲みに映り込む。音もちゃんと聞こえる。

誰がどうやって機材を設営して、電源や電波を供給しながら配信しているのか…気になりながらもぼーっと見つめていると、たまに聞こえる。ひとの声があった。英語だった。

これは後から知ったことなのだが、ナミビアは「南西アフリカ」としてドイツの保護領だったり南アフリカ共和国に占領されていた歴史があり、1990年(最近!)ナミビアとして独立したため、南アフリカの公用語である英語が使われている。しかし僕は、所謂「ブラックミュージック」の歴史のようなものをすこし齧ったことがある身として、今となってはヴァナキュラーな言語であるとはいえアフリカ大陸で英語が公用語として使われていること自体に多少なりとも嫌悪感がある。

動画のスクリーンショット。鳥たちがいる。https://youtu.be/ydYDqZQpim8
このようなチャンネルはいくつかある。
Youtubeの性質上、ストリーミング中にURLが別のものになっている可能性がある。

僕はいつもどこかで「奴隷」概念とぶち当たる。

「ブラックミュージックはニューオリンズから始まった」「ジャズの歴史はミンストレル・ショーから始まった」という仮定にはいくつか議論がある。音楽における"BLACK"についてはある程度知っているけれど、その当時の北アメリカ南部における黒人奴隷とその労働について、当時の彼らの息遣いを感じる書籍にまだ出会えていない。もしかしたら今後そういった書籍に出会えるかもしれないし、直接話ができるような友人と出会えるかもしれない。しかし、僕が日本の京都という島国の観光地で生まれ育ち、大陸の都市文化に触れていない上、僕が生まれた時すでに日本が職業選択の自由を謳っていて、外見や生まれで職業選択の不自由を被った経験がないことも、僕の想像力の乏しさに起因しているに違いない。間違いなく、日本で生きている限りは自身の未来を選択する意思決定に外的要因は(積極的には)干渉してこないと思える。
(そういえばバイトの面接で「京都の人嫌いなんだよね〜」と言われたことがあるが、正直もうどうでもいい。)

僕自身「奴隷」概念と無関係であるにも関わらず、いつもどこかで躓いてしまうのは、日本でできる仕事、職業やビジネスの関係性にも「使役」が存在しているからだ。

ガゼルがきた。

最近また、「奴隷」概念とぶち当たった。
仕事柄、現場内で起こることであれば、また、自分がクオリティを担保できるものであれば、頼まれたことは何でもやらなければならない。できるのであれば頼まれた以上のことを自分で見つけてやらなければならない。自分のための時間は用意されていないから、隙間時間を見つけて、できるだけ短く時間を見積り、「うまく」やらなければならない。やらなければ、サボれば、次の日以降仕事がしづらくなる。もっと多くの仕事が、しかも自分だけに降りかかってくる。しかし健康管理は自己責任である。全力で仕事をし、体調を壊したら、現場にいなかった日数分給料は減る。
無理をしてついに体調を崩した。39.8℃の熱。横浜市の発熱外来はパンクしていて早朝から電話し続けても予約が取れない。簡易PCR検査キットで陰性を確認し、1週間後、取り急ぎ熱が下がった次の日に出勤したが、その日のうちにまた無理をして熱をぶり返した。

これが奴隷でないなら、何なのだろうか。奴隷ってどういう状態のことをいうのだろうか。奴隷でない労働者は存在するのだろうか。転職したとして、その仕事は奴隷ではないだろうか。

ナミブ砂漠を眺めながら、自分が仕事に求めていたものを思い出せずにいる。どん底だからか、精神的に何かを拒否しているのか。
僕を奴隷ではないと保証する憲法は、奴隷的という言葉を使いながらその本質を教えてはくれない。
現場には悪いけれど、どう頑張っても僕が悪いとは思えない。


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