読書日記

SNSでの批評ごっこに心底うんざりしたころ、そういえばそんなタイトルの本があったなぁと思い出して読んでみたのが槙田雄司『一億総ツッコミ時代』(星海社新書)です。

著者はお笑い芸人のマキタスポーツさんで、お笑い芸人が市民権を得ていくなかで世の中だれもがツッコミになり、閉塞感が生まれてしまっていると考えています。

何度も言いますが、時代を語るキーワードは「ツッコミ」です。このツッコミという行為は、かつては面白い言動(=ボケ)に対してのみ行われるものでした。しかし今やありとあらゆる失言、失敗に対しても行われるようになった。ツッコミというよりも指摘、批難というたぐいのものに成り代わったのです。笑いに変えるための手法であった「ツッコミ」は人を簡単に批難するツールとなりました。多くの人は他人にツッコまれることを恐れて、なるべく下手な動きをしないようになった。同調するようになったわけです。(『一億総ツッコミ時代』p.8)
ツッコミというのは「なんでやねん!」という行為のことだけを言っているわけではありません。自分では何もしないのに他人がすることについて批評、ときに批難することを指します。(p.9)

あーすげえわかる。と思わざるを得ません。今日もSNSでは誰もが誰かにツッコミを入れ、何かがバズり、何かが炎上し、一瞬のカタルシスだけを残して日々忘れ去られていきます。この本が書かれたのは2012年ですが、9年を経ても改善の兆しは見えません。

そういえば現在の日本の総理大臣はその2012年から「政権の顔」である官房長官を務め続けてきた人物ですが、「原稿を読むばかりで自分の言葉で語らない」と評される彼はまさに一億総ツッコミ時代が生み、育んだキャラクターなのかも知れません。

閑話休題。

一億総ツッコミ時代を生き抜く方法として槙田さんは「ボケ」と「ベタ」を挙げています。

ひとつは「ツッコミ志向」から「ボケ志向」になること。もうひとつは「メタ」から「ベタ」への転向です。(p.8)

ベタに生きて、「良い/悪い」よりも「好き/嫌い」を語り、何かに夢中になり、ツッコむよりもツッコまれる側になる。夏に海に行く。山に登る。クリスマスや正月を楽しむ。まさにベタベタですが、「ツッコミをする側から、ツッコミを受けるボケの側へ」「神経質なメタから、力強いベタの側へ」(p.186)行くために、そういう生き方を提唱しています。

面白いのは著者の槙田さん自身が「長らくツッコミ側の人間でいたために、もうひとつ剥ききれなかった」(p.186)と書いているところです。こうした自分がツッコミであるからこその煮え切らなさ、ボケへの憧憬と向き合ってベタの側への移行を言葉にしているという点では若林正恭さんのエッセイと近いものも感じます。

もうひとつ、ボケとツッコミ、というので思い起こすのは千葉雅也『勉強の哲学』です。

本書では、思考のテクニックとして自覚的にツッコんだりボケたりすることを説明しようとしている。(略)環境(=他者関係)が、自分を、その環境の人として構築している。自分が癒着している環境のコードに対するツッコミとボケは、だから、自己ツッコミと自己ボケなのです。そうできるようになることが、勉強の深まりなのです。(『勉強の哲学』pp.71-72)
本書ではこれから、ツッコミをアイロニー、ボケをユーモアと呼び直して説明します。アイロニーとユーモアの対立、これが自由になるための思考スキルです。(p.74)

ボケとツッコミを自覚的に自分に向けて駆使することで自由になる。槙田さんは「面白く生きる」ためにはベタに生きようと書いていましたが、千葉さんは自由になるために自己ツッコミと自己ボケを提唱します。その一方でSNSに溢れるツッコミを同調圧力だとも書いています。


千葉さんには『動きすぎてはいけない』という著作がありますが、この「程度問題」というのは、白か黒かの議論が横行する昨今では見失わずにいたいところです。

ぼくは自分自身がツッコミ人間だという自覚があるからこそ、一度思いっきりベタに生きてみる必要がありそうです。ツッコミ過剰の世の中でベタに生き、自己ボケと自己ツッコミとでベタさのバランスを探していく。そうやって少しでも楽しく、自由に生きていけたらいいなと思っています。

死ぬ直前に、「他人にツッコまれた自分のあり方」は振り返ることができますが、「自分が他人に行ったツッコミ」を振り返ることはないでしょう。「ツッコみ続けたまま、お前は死ぬのか?」ツッコミ人間にはそういう言葉を投げかけたいのです。(『一億総ツッコミ時代』p.121)



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