わたしがわたしを愛せないという事実

わたしはわたしのことが好きだと思う。物事の締切はきっちり守るし、人とのコミュニケーションも楽しめる。手順が曖昧だと困ってしまうところもASDらしくて可愛らしいなと思うし、起きる時間や寝る時間、身支度のタイミングまで規則正しいルーティンを作っているところなんかも好いている。
ただ、わたしはわたしを愛せない。疲れた日には早く寝るだとか、歯磨きをした後にアイスを食べるだとか、普段2時間に1本と決めている煙草を決まった時間以外に吸ってしまうだとか、そういった、通常「ご自愛」や「まあいいよね」で済まされる行動全てを「甘え」と捉えてしまうのだ。
特段、厳しい家庭で育ったわけではない。両親はわたしに溢れんばかりの愛情を注いでくれたし、祖父母も伯母も同様だった。両親にはただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだ。こんなにも愛してくれたのに、当の娘は自分を愛せず、常に自分を追い込むような生き方しかできていないのだから。

幼少期のわたしは、まさに天真爛漫なASDっ子だった。嘘はつけないし、ルールを守る。学級委員だってやった。勉強にも真面目に取り組んだし、困っている子がいればすぐに駆け寄った。でもそんなわたしを、同級生たちはよく思わなかった。「まことちゃんと遊んでもつまらない」「いい子ぶってる」「おかしいよね」そんなことを度々言われたわたしは混乱した。だって「人に優しく」「決まりを守る」「教えられたことをきちんと覚える」がわたしの中の「ルール」だったから。混乱したわたしには、不安がついて回るようになった。自分が本当に「正しい」のか、わからなくなったからだ。今にして思えば、ASDの特性である「ルールを守りたい」「白黒思考」「こだわり」などが複雑に絡み合い、自分を支える軸を失っていたように思う。あの時、自分のルールが全てではないことや、それが正誤だけで判断できないことを教えてもらえたらどれだけ良かっただろうと時折考える。それでも当時はASDの診断も出ていなかったし、それを今更嘆いたところで仕方がないのだけど。
学校生活の中で自分自身に不安を感じる中、担任教師が産休で替わった。小学四年生の頃のことだ。わたしは多分、その教師のことが好きだったと思う。特に朝活動で行われる本の読み聞かせの時間が好きで、彼女が選ぶ本はどれも素敵だった。わたしは彼女に認めてもらいたかったのだと思う。認めてもらうことで、自分の中にある不安を拭い去り、安心したかった。でもそれは叶わなかった。
作文を全校生徒の前で朗読する役に選ばれた。わたしはとても嬉しくて、家で夕飯を作る母に聞いてもらいながら一生懸命練習した。わたしには吃音があって、特にあ行の発音がスムーズにいかない。どうしてもつっかかってしまうのだ。それでも毎日のように練習した。担任教師に褒めてもらいたかったからだ。
朗読の当日。わたしはとても緊張していた。それでも壇上に上がり、作文を読もうとする。最初の言葉が出てこない。緊張で吃音が出やすくなっていたから。あんなに練習したのに。悔しい気持ちと恥ずかしい気持ちは、涙になって現れた。それでもなんとか声を振り絞り、泣きながら、つっかかりながら、作文を全て読みきった。聞いていた生徒の中には姉もいた。姉はどんな気持ちで泣きながら作文を朗読する妹を見ていたのだろうと考えると心底居た堪れない。壇上から降り、クラスメイトの座る列に戻る。最後尾には担任教師がいた。その隣に座る。彼女は呆れたように笑いながら言った。「家でも泣きながら練習していたの?」

20代もそろそろ後半という頃、彼氏ができた。通っていた自動車学校の指導員をしていた人だ。連絡先を交換してからは早かったように思う。デートを重ね、お泊まりをし、2年やそこらで結婚を決めた。その頃のわたしは、自分がASDかもしれないと何となく考えていて、自分の特性を知りながら生活をデザインしていたところだった。結婚後、まずはわたしがASDの診断を受け、その後夫がわたしの紹介で同じ病院の予約を取り、ADHDの診断を受けた。
結婚生活は、上手くいかなかった。無論、上手くいっていた時期もある。でもその波が激しく、その度に傷ついたし、夫のことも傷つけたと思う。
夫は話し合いができない人だった。感情が抑えられず、すぐに怒鳴ってしまう。そしてその怒りは長期化し、二週間口を聞かないなんてこともザラにあった。喧嘩をすると、彼は「まことは自分が一番正しいと思ってる」「社会に出たこともないくせに」「セックスできないなんて夫婦じゃない」といつもわたしを非難した。わたしは自分が一番正しいとは思ってないし、夫の意見を聞きたかった。でも夫はいつも「わからない」と話した。社会に出たことはある。一人暮らしをして、アルバイトだけれど働いていたし、ずっと引きこもりをしていたわけではない。セックスを拒否するのは心のつながりが感じられなかったからだし、そもそも夫はアダルトビデオの真似事しかしなかった。わたしは夫の性欲を処理するために妻になったのではないし、愛し合いたいから夫婦になったのだ。そんなわたしの意見は全て「俺を傷つけるな」の怒鳴り声に消されてしまった。
夫とは離婚した。少し前に病院の玄関先で会ったのだが、元気そうにしていて良かった。今でも通院をしていることにほっとしている。少しでも彼が生きやすくなるための手助けができたのであれば嬉しい。

小学生の頃の担任教師も、元夫も、わたしにとって「社会の中にいる、わたしが認めてもらいたかった人」だった。でもそれは叶わず、結局はレッテルを貼られて終わってしまった。今のわたしにとって、この二人は大きなトラウマでもある。
この間、元上司二人に相談に乗ってもらった。承認欲求が強いこと、社会に出ることに困難があること、人間関係の構築にも困難があること。上司二人はわたしの話を黙って聞いて、難しいな、と話していた。

人に認められたい気持ちは、あなたは人一倍強いと思う。それは過去の経験からだ。承認欲求はあって当たり前。俺だってある。あなたのそれは大きいけれど、まずはそれを認めてあげること。ルールを守ることはいい、でもそれは「あなたの中のルール」」であることを意識すること。それと同時に「他者には他者のルールがある」ということも覚えておくこと。実際に社会の中にあるコミュニティに入ってルールの違いを実感してみてもいい。社会、外が怖い、という意識はわかる。それもこれまでの経験から。でも外には「刺さない人」もいる。刺す人もいるかもしれないけど、でも刺さない人もちゃんといる。それを覚えていて。承認欲求と自己受容の比率を変えていこう。承認欲求はあっていい。でも割合として、少しずつ自己受容を増やすこと。ルーティンを作っているなら、あえてその手順を崩して「まあいっか」の実感を持ってみる。煙草を吸う時間とかね。気持ちが崩れるかもしれない、不安定になるかもしれない。それはそれで「まあいいよね」と思えるところから自己受容を始めてみて。大事なのはルールに余白を持たせること。それで少し、生きやすくなる。

上司二人の意見を要約するとこんな感じだ。
上司はよく「自分を責めるな」とわたしに言うが、就労移行支援を利用している時から、わたしは自分に対する「評価」は行っていない。困難があっても、仕方ない、で割り切ることができるようになったし、無職の今も概ねのびのびと過ごせている。しかしよく考えてみれば、評価をしていない、ということは、褒めてもいない、ということではないだろうか。
一時期、「よくできましたリスト」を手帳に書き込み、スタンプを押して自分を褒めるということをしていたのだが、不思議なくらい効果がなかった。それは恐らく、わたしの中で「そんなことはできて当たり前」の意識があるからだ。
自己受容を始める、と考えて、途方に暮れた。わたしはわたしを愛せていないことに気付いたからだ。
自分を休ませる手段も甘えと認識し、よくできましたリストも活用できない。仕事を終え、今日も頑張ったと自分を褒めてもなんだか虚しくなってしまい、ちっとも満たされない。
わたしはわたしのことが好きだ。ASDの特性も愛らしいと思えるし、愛嬌だってある。人を楽しませる喋り方を習得できていると思うし、友達が困っていたら力になりたいと思える。世の中にある困難がなくなったらいいと考えているし、だからこそ障害福祉の仕事を選んだ。
それなのに、わたしはわたしのことを愛せない。社会の中に出ると、途端に自分に牙を向けてしまうからだ。それはきっと周囲と自分を比べていて、自分軸で生きることを選べないから。
これまでずっと、大きな不安と承認欲求を抱えて生きてきた。それは他人軸で生きてきたということで、とても不安定な関係性の中で彷徨ってきたんだろうと、少しばかり自分に同情する。
上司には自己受容を始めることを勧められたが、残念ながらまだわたしはそのステージに立っていないらしい。今のわたしが始めるべきことは「自分を愛せない自分を否定しない」ことだと思う。親はこんなに愛してくれたのに。あんなにたくさんの愛情を注いでくれたのに。それをわたしは全て無駄にしてしまっている。と、そんなことばかり考えてしまうからだ。
わたしがわたしを愛せないのには理由がある。特性由来でもあると思うし、過去の経験からでもある。
今は自分の中にあるクソデカ承認欲求を抱きしめながら、それでも心のどこかにある自己受容のきっかけを探っていきたい。両親から一心に受けた愛を、いつかわたしがわたしのために注いであげられるように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?