アートへの「旅路」を共に歩く(川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社、2021)読書感想文)

とにかく面白い、ものすごく面白い本だ。美術鑑賞のイメージが、堅苦しいものから、気軽に楽しめる易しくて豊かなものへと、ゆったりとひらかれていく。

本の感想を書く前に、前置きとして、父との思い出話を書いておきたい。
父は美術を愛していた。経済的な事情で大学にもほとんど行けず、本格的な美術教育を受けるチャンスもなかったようだけれど、さまざまな本を読んで勉強し、母と小さな幼稚園を経営し、書道や工作を子どもたちに教えて生計を立て、私たちを育ててくれた。油絵や版画や陶芸や写真にも挑戦し、特に銅版画はライフワークになっていたようだ。毎月『美術手帖』を購読し、日曜日にはNHKの「日曜美術館」を観ていた。

美術館に行くのも好きで、私を連れていってくれることもあった。
私が大学生の頃だったか、父と行った展覧会に、目の見えない人が来ていた。残念ながら、誰の展覧会だったか忘れてしまったのだけど。

その目の見えない人は20代後半くらいの男性で、同年代の男性と二人で、笑顔で和やかに話しながら、壁にかけられた絵の前に立っていた。落ち着いた感じの仲の良い友人同士という感じだった。

展覧会を見終わった後で、父が嬉しそうに言った。

「目が見えない人も来ていたのが感動的だったねえ」

その時、私には父の言ったことがわからなかった。「目が見えないのに、展覧会に来て絵を見るってどういうこと?」としか思えなかったからだ。
私が特に返答をしなかったので、そこでその話はおしまいになってしまった。今思えば、あの時、父がどう感じたのか、何に感動したのか、もっと聞いておけば良かった。

だから、この『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』がラジオ番組で紹介されているのを聞いて、すごく読みたいと思った。ラジオで紹介された内容もとても面白かったし、私の中に残ったあの疑問を解くことにも繋がりそうだったから。

この本の筆者の川内有緒さんは、友人のマイティさんに誘われ、全盲の白鳥建二さんと一緒に展覧会に行って、アートを見ることになる。
皆で作品の前に立ち、同行者の一人一人が作品について白鳥さんに説明する。そして、各自が感想や気づいたことを思いつくままに話し合っていく。
その会話の中で、人によって作品の見方が全く違っていることがわかってきて、お互いに新鮮な驚きが続く。同じ芸術作品を見ていても、人によって見えるものが全く異なる。白鳥さんを交えて会話することで、一人一人がいかに違う見方をしているのかがわかってくるのだ。

この会話を聞いている(読んでいる)だけで、読み手の私も、ものすごく楽しい。友人同士の気取らない会話の中に、自分も入れてもらっているような感覚になる。温泉にゆったりと身をひたしているようで、とても心地よかった。
アートの見方に正解はなく、各自が思うように自由に見ればいい、ということがよく理解できる。私たちはもしかしたら、どこかに「正しい見方」というものがあって、それに従わなければならないと思わされてきたのではないだろうか。この本は、そんな思い込みから、読者を軽やかに解放してくれる。
そして、他の人の見方を知ることで、自分一人で見ている時とは全く違う作品のように見えてくるのだ。今すぐ、友達と一緒に展覧会に行って、感想を言い合いながら自由に美術鑑賞を楽しんでみたくなる。

では、「見える人と見えない人が一緒に鑑賞する」ことの本質はどこにあるのだろうか。

見えないひとと見えるひとが一緒になって作品を見ることのゴールは、作品イメージをシンクロナイズさせることではない。生きた言葉を足がかりにしながら、見えるもの、見えないもの、わかること、わからないこと、そのすべてをひっくるめて「対話」という旅路を共有することだ。(p.106)

ああ、そういうことだったのか、と思った。あの時、展覧会に来ていた二人もそうだったのだろうか。見える人も見えない人も、一枚の絵の前で、その作品について対話する旅を楽しんでいたのだろうか。

そういえば、ラジオでこの本が取り上げられたときに、ボナールの「犬を抱く女」の絵を皆で鑑賞している場面が朗読された。私はその絵を見たことがなく、ラジオから流れてくる朗読だけが頼りだったのに、その朗読を聞いているだけで楽しくて面白かった。あの感じに、もしかしたら近いのかもしれない。

この本には、白鳥さんと一緒にあちこちの展覧会や美術館を訪ねる様子が書かれている。興福寺に仏像を見に行った時は、木造千手観音菩薩立像が「食堂のおばちゃんみたい」という声が出るのだが、居合わせた僧侶の証言で、実はこの千手観音がかつて、僧たちが食事をする「食堂(じきどう)」の御本尊だったことがわかる。

マイティさんは言う。

「こういうことってたまにあるんだよね。みんなで見ていると、知らず知らずのうちに作品の核心に近いところにたどり着いちゃうの。ひとりでそこまでたどり着くって難しいんだけど、みんなで色々と話しているうちに、『実はそうなのかも』というところまで行けちゃう。ひとりではなし得ないことが、大勢ではできる。だからほかのひとと話しながら見るって、やっぱり面白いんだよねえ」(p.157)

川内さんも、こう思うのだ。

 だって、こうしてみんなで作品を見る目的は、正解を見つけることでもなければ、白鳥さんに正しい答えを教えることでもなく、ましてや、全員が同じものを同じように見ることでもない。
 それよりも、異なる人生を生きてきたわたしたちが同じ時間を過ごしながら、お互いの言葉に耳を傾ける。そうして常に「悪」とされる鬼だって、ときに涙を流すことを想像してみる。たぶん、それだけで十分なのだ。そうして、ひととひととの間にある境界線を一歩ずつ越えていこうとすることで、わたしたちは新しい「まなざし」を獲得する。それによって、世界を「あまねく見る」という優しさに、ほんの少しだけ近づけるのだと思う。(p.160)

みんなで鑑賞することで、一人で見ている時とは別の地点まで辿り着けるというのは興味深かった。他者との自由で豊かな関係の結び方がここにある。人と対話することで、自分という小さな穴蔵から出て、もっとずっと広い未知の世界を見ることができるのだ。
そこでは、自分と相手がお互いに異なっていることこそが、価値のあることになるのだろう。目の見えない人に「正しい答え」を教えてあげたり、鑑賞者の誰が正しくて、誰が間違っているとか、正しい感想と正しくない感想に分けてジャッジするような窮屈な世界ではない。お互いの違いや意外性を受け入れて、全員が対等な存在として会話するところから生まれてくるものがあるのだ。

日々の生活の中で、私たちはギスギスとぶつかり合う。あの人とは気が合わない、考え方が合わないと排除し合う。テレビからは殺人や暴力のニュースが流れる。許し合えない、認め合えない、相手を許容できない、相手が自分の想定した範囲をちょっとでも超えたら許せない。そんな世の中になっているのかもしれないと思うと寂しい。

でも、アートの前では、私たち皆が自由だ。この本の中で行われている美術鑑賞は、「世界を『自分と同じもの』と『自分と異なるもの』に切り分けて、切り分けた『他者』を厳しく糾弾する態度」から、一番遠いところにある。アートは、私たちが楽しく共生できる「場所」を容易く開くことを可能にしてくれるのではないだろうか。

父は何年も前に亡くなってしまったけれど、もし生きていたら、父にもこの本を読んでもらいたかった。この本に出てくるアールブリュットの話も、興味を持って読んでくれるはずだ。私の姉には重度の知的障害があるし、父は障害のある子どもに絵を教えたこともあるから。
本を読んでもらったら、父の感想も聞いてみたい。あの展覧会の日の出来事についても話してみたい。今の私なら、もっと深く父の話を聞くことができると思う。
そして、今なら、二人で展覧会に行っても、もっともっと鑑賞を楽しめると思うのだ。父と自由に話し合いながら、思いついたことを遠慮なく言い合いながら。

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