アイロニーな隘路にはまる「わたしたち」の物語——伊藤計劃「ハーモニー」感想
こんばんわ。弥生です。
普段は近代陶器を中心にプチ骨董を販売するEC事業をやっております。
仕入れが止まってそろそろ10日。
次の仕入れ日を明日に控える中、あまりにも退屈に倦んだ私は一冊の本を手に取りました。
この本があまりにも良かったので、今回はその感想などをしたためていこうと思います。
伊藤計劃にはまるきっかけ
つい半年前でしょうか。
ちょっとした物語を思いついて、その肉付けに使えないかと手に取ったのが「屍者の帝国」でした。
生きてない生者と、死んでない死者の対立を描く物語を思いついたは良いものの、そこからどう肉付けして演劇台本に落とし込もうか?と悩んでいた頃。
何かヒントになればと思い手に取ったのが伊藤計劃との出会いでした。
(※のちにあとがきで絶筆の物語を円城塔さんが仕上げたものであると知るわけですが…)
ものぐさなので、半年ほどたって本に手をつけて、現実のネットワークを彷彿とさせる設定や、死者と生者をクオリアの有無で語ろうとする切り口に魅了されました。
伊藤計劃、気になる!!
というわけで、古本屋にダッシュしてハーモニーを入手。
etmlというマークアップ言語らしきものを使って物語を表現する手法の面白さと珍しさに、すっかり夢中になっている次第です。
ハーモニーは理想郷を描く物語
ここからは少し内容に触れていこうと思います。
2008年刊行の有名SF小説ですので、今更ネタバレも何もないとは思いつつも、これから触れる人もいるかと思います。
何も見ずに楽しみたい方は、noteを閉じて買いにいってください!
GO BACK!!
ハーモニーで描かれる世界は、現生人類が持つ生老病死という4つの苦しみの中の「老」と「病」を管理社会の元で克服しています。
現代人にとって「老」と「病」は、克服すべきものという認識があります。
この10年ほどでエイジングケアやセルフメディケーションは、裕福な人が酔狂で取り組むものから、嗜みと言っていい程度の領域まで思想が遷移しました。
健康で・清潔で・若々しいことは、自己管理という名のもとで押し付けられることがあります。
現代社会では、料金と引き換えのサービスとして提供されている「嗜み」ですが、小説ハーモニーでは「必須」とされています。
ハーモニーの中では、体は公共的な資源として扱われており、全員が「健康的で」「清潔で」「若々しい」ことが社会的な評価として使用されています。
健康的な生活を強いられる社会の中では、煙草もアルコールもカフェインでさえも、不摂生とみなされ社会規範の中で恥ずべきものとして扱われる。
そんな世界設定を見ていると、まるで私が今生きている日本という社会が求める社会とオーバーラップするのです。
日本だけじゃないかも。アメリカ的にも見えるけど。
自分の体は自分で責任を持つべきである。
健康的な体を維持できない人間は、有能な人間ではない。
そういった概念を少なからずこれを読んでいるあなたも持っていると思います。
そんな価値観を過剰に突き詰めたのがハーモニーの世界。
そんな理想的な世界の中で巻き起こるとある騒動の末に、大きな変化を迎える人類を描いたのが本作のおおまかなあらすじです。
この小説が描かれた16年先に生きている私にとって、この物語のように核戦争が起きないまでも、いつか人類はこうなってしまうかもしれない…。
と思う程度には、現実と地続きな感覚がしました。
発展していく美容医療は健康増進を訴え
テレビには10年前と変わらぬ美貌を湛えるタレントたちが並び
それを見ながらアンチエイジングを謳う化粧水を肌に塗りくる
私たちが生きている現実でも「若く・健康的であること」は、社会的に正しい行為の一つであり、自己管理で乗り越えらえるべきと認識されている苦しみなのです。
少子化によって激化した「人資源」的評価論
言論の世界では日々「日本人の生産性」について議論が交わされています。
そして社会を維持するための施策として「少子化対策」が練られています。
60歳以上の高齢者を社会で働かせよう、女性を社会で働かせよう、リスキリングで良質な人材を育てよう、外国人就労者を増やそう…etc
私が生きている現在の日本は「人材」を「資源」として認識する傾向がとても強くなっています。
1984年生まれの私が大人になったころは、学校でも会社でも、こういう言葉が良く使われていました。
「お前の変わりなんて、いくらでもいる。
―—文句を言うなら辞めちまえ」
今こんなことを言ったらコンプライアンス違反ですし、パワハラです。
大層な問題になるかと思います。
でもこれが問題視され始めたのは人権意識の高まりの結果でもなければ、時代の変遷でもありません。
先進国で人口が減っている問題が表面化してきたからです。
私が子供の頃は「人口爆発による食料危機」が問題視されていました。
そのころの価値観で考えれば、人はいない方が社会にとって都合がよかった。
むしろ、社会を支える環境限界において、人は重荷でした。
ゆえに、人という資源は重要視されない世界だったのだと、推測してます。(子供の頃に感じた肌感覚なので、実際どうだったのかは不明)
小説ハーモニーの世界では、核戦争後の世界が舞台になっているので、さらに人口は少なく。
また、人間同士の生殖行為でしか生まれない資源である「人間の体」は公共の資源として扱われています。
人は資源を大切にするという感覚のもと、人に対して優しく・親切にする。
人を傷つけないように細心の注意を払ってコミュニケーションをとる。
んー!!!
まるで2024年の日本の地続きの先にあるかのようです。
「炎上」という人の群れの過剰反応を恐れ。
言葉のチョイスや表現に人は悩み。
「優しく」「慈愛ある」発言を求められる。
誰かを傷つけ、自分が傷つけられることを過剰に恐れる。
それが2024年を生きる私たちのコミュニケーション!
つい30年前までは、人を殴り・貶め・自分の強さを証明しなければいけなかった世界なのに不思議な変化をするもんだ!
そういう目で見ると、このハーモニーの世界で起きていることも、地続きの出来事のように思えてくるのです。
アイロニーな隘路の世界は「わたし」を必要としない
「健康で若々しい人」は、2024年の高齢化社会を間近にした私たちの社会において、「理想的な人材」の要素の一つ。
今の私たちはそうあることで、「自分の価値」を作る・証明する手段のように扱うわけですが……
これが、管理され・絶対視されるようになった社会において、「わたし」が必要とされるのかどうか。
「わたし」と呼ばれる自我・クオリア・意思は、必要なのか?
というのが、本作の大きなテーマの一つです。
社会的な群れの存続を追及するのであれば、蟻や蜂の生き方ほど効率的なものはないでしょう。
役割のもとに・迷うことなく。
彼らは群れを守る行動をする。
人類が群れとして存続をしていくことを効率的に考えるのであれば、人の能力や才能にラベリングを施し、社会の存続に必要なタスクを割り当て、食事を与えればいい。
氏族という形で社会構造を固定化した日本の江戸時代や、数多くの国の中世において社会構造は安定化していました。
そして、小氷河期という人類という群れにとって重大な危機を乗り越え、現在があります。
少なくとも人間の群れを保存するシステムとしては十分な結果を残しています。
今、私たちがここにいるのだから。
しかし、人々は社会構造に反発し、「自由意思の権利」を訴え、国家に革命を起こし、大きな戦争を2度も起こします。
かつての世界よりも人口は増えました。
私たちは過去の人類が願った幸福な結末の先を生きています。
ヒトは欲しかったものを手に入れたはずなのに。
私たちは今も苦しみを抱えている。
なんとも皮肉です。アイロニーです。
そして、社会は正しさという名の隘路に人類を押し込めることに必死です。
そんな社会の中で「わたし」という名の自由意思は
必要とされるのでしょうか?
そんなことを読んだ後に思う、物語でした。
10年以上前に描かれた物語ですが、私は2024年の今、この本を手に取れてよかったと思います。
今の社会を包む「正しさ」や「生きづらさ」に思いを巡らせたことがある人には、きっと刺さる。
「わたし」とは何者なのか。
「わたし」は社会にとって必要なのか。
そして、この本の結末に一抹の寂しさをきっと感じてくれると思います。
「わたし」は「わたし」を失いたくない。
たとえ、この社会が「わたし」を否定しても。
本を閉じた後、そんな風に思っていただけたなら、あなたとはいいお茶ができそうです。
この記事は私の主観において感じたことを書いています。
記事としては粗悪かもしれませんが、「わたし」が見た世界の一つの記録として残しております。
次は虐殺器官をさがしてきまーす!!