ノーラン作品の「時間の嘘」の愉悦と危うさ

クリストファー・ノーランの映画が好き。『TENET』を見て、改めて思った。それも、中毒に近い「好き」だ。しかし僕にとって、ノーランの作品世界に浸ることは、どことなく不健康な感じもする。ノーラン作品の愉悦と危うさ、その正体は何だろう。

映画評論家の町山智浩さんは、ノーランの映画を「嘘」というキーワードで読み解いていた。最たる「嘘」は、「時間」についての嘘だろう。ノーランの映画では、時間が逆向きに進んだり、未来の自分の行為が今の自分に影響を及ぼしたり、束の間の眠りのあいだに何年分もの夢を見たり、数分のミッションのあいだに幼い娘が成人したりする。しかし、現実の時間は、過去から未来へしか流れないし、1倍速でしか流れない(少なくとも普通の状況では)。そして、まだ起こっていないことは起こっていない(はず)。

伸ばす・圧縮する・逆行させる。ノーランは映画のなかで「時間」を自在に操ってみせる。そうした時間観は、少しずつ着実に僕の心を侵食する。嘘=虚構だとはわかっていてもだ。3歳の娘と遊ぶとき、40年後の彼女の姿を重ねて見てしまう。自分の半生は実は夢で、目を覚ましたら自分は20歳の大学生なんじゃないかと空想する……誰しも持ちうる感慨かもしれないけれど、自分の場合、『インセプション』や『インターステラー』が間違いなくその頻度に影響している。

僕らがそうした「嘘の時間像」の侵食を受けやすいのは、人間の心にもともと備わった傾向のせいだろう。「今」以外の時間に思いを向けること、過去のエピソードを想起したり、未来の出来事を予想したりする「メンタルタイムトラベル(心的時間旅行)」の能力は、他の動物には見られない、人間特有のものだと言われる。また、僕らは時間を直線上に描き、過去・現在・未来を一挙に見渡すようにして時間を捉える癖がある(「時間の空間化」と言ったりする)。ノーランは、メンタルタイムトラベルの能力を「暴走」させ、時間を空間化したがる傾向を「ハック」することで、時間に関する嘘をインセプションする(植え付ける)ことに成功しているのだろう。

そして、切なさ、なつかしさ、不安、虚しさ、絶望、退屈、希望。僕らにとって切実な情動は、ほぼすべて時間感覚に結びついている。その時間をゆがめ、折り畳み、切り刻み、逆行させたうえで人間的なストーリーを見せられると、僕らの情緒は、大きくかき乱され、スクリーンの前で泣いてしまう。

ノーラン監督は、時間についてのある種の「勘違い」を増幅させ、極大化した「嘘の時間」にリアリティを与える魔術師だ。その時間像はフィクションの世界を超え、僕らの日常の世界観・現実観に侵食する。それは悪いことなのか? わからない。「嘘」とか「勘違い」と書いてきたけれど、「時間とは何なのか」について、僕らは本当のところは知らない。もしかしたら、ノーラン映画のなかに、より真理に近い時間観(「真理に近い時間観」が意味をなすとして)への扉が隠されていることだってあるかもしれない。逆に、伸びたり逆行したりする時間観にリアリティを抱きすぎることに、何らかの弊害があったとしてもおかしくない。

これからも、警戒感は怠らずに、ノーラン作品のエモーショナルな「時間の嘘」に魅せられていきたい。

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