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誰かと共に暮らすということ

コロナ禍で自室に引き籠る機会が増えたせいか、室内に置く多肉植物やサボテンの数がどんどん増えている。遂にコーデックスにも手を出した。太陽光が強い時間帯には植物たちをベランダで日光浴させ、夕方になると植物たちを暖かい室内に戻すという作業も、自分の日課の一部と化してきている。

おかげさまで、多肉植物の図鑑や雑誌を買い集め、植物たちの原産地を調べたり、栽培カレンダーに目を通しながら、植物たちと共に暮らすための方策を日々思案する趣味も増えた。置かれた場所で生を全うする「彼ら」という他者に配慮すること。根こぎにされた生命は、いずれその火を絶やす運命にあるということ。ぼくらはどこかに根を持たねばならない。強風に吹き飛ばされないようにするためにも。

そういえば、ニュース番組によると、自粛のストレスを紛らわせる目的で購入したペットの飼育放棄が相次いでいるらしい。新宿駅の構内に、母子が自ら棄てたと思しき子犬との別れを悲しむ姿を、優しげなタッチで描いた日本動物愛護協会のポスターが貼られるようになったことも、その影響なのであろうか。ペットの飼育放棄が問題視される背景には、他者の生を引き受ける事に対する責任感の希薄さを非難する道徳的処罰感情の高まりが蠢いているように感じられる。みずみずしい色合いで母子と子犬との別れのシーンを表現した「かのポスター」には、イラストが醸し出す朗らかな雰囲気を意図的に裏切るかのように「優しそうに聞こえても、これは犯罪者のセリフです」との一言が書き添えられていた。お決まりのショック療法である。

仕事から帰宅したら、私はいつも植物たちに「ただいま」と声をかけている。もちろん、植物たちは、私に向かって「おかえり」という言葉を投げかけてくれるわけではない。ただ彼らはそこに在るだけだ。

だが、私と彼らは概日リズムを共有している。私も彼らも、宇宙のリズムに合わせて設計された機械仕掛けの生命体である。室内に籠りきりで気分が滅入ってしまうときや、低気圧や月経のせいで身体が気怠いときに、室内で共に暮らす植物たちの顔をふと眺めると、私を刻むリズムの乱れが、彼らを共振させているような心地がしてくる。宇宙の極大さを映し出すものは、きっと一粒の種なのだ。

昨年の冬、産業医と面談を行った。産業医から近況を聞かれたので、おおむね何もかも丸く収まっているという趣旨の話をした。どうやら私は「何もかもきっとよくなる」という呪文を唱えながら満員電車に揺られるうちに、ほんとうに何もかも丸く収まっているような錯覚を自分に抱かせることに成功したようである。

事前に渡したメンタルチェック表を基に、産業医は雑談とカウンセリングの境界をゆらゆらと泳ぎ続けるような質問を私に投げかけ続けたのであるが、ある時、彼はふと思い出したかのように「あまり睡眠が取れていないようですが、睡眠に関して不安を抱えていたりしますか」と口に出した。

正直、寝つきが悪いことは事実だった。彼の言葉に対して、私は「ええ、そうかもしれませんね」と適当な返事をしたが、この返事は、現在の部署で働き続けた場合、直属の上司の残業時間を鑑みるに、今後の自分の業務負担に不安感を抱いているということと、将来を考えると不安で何となく目が冴えてしまって中々寝つけないことの圧縮物でもあった。丸への包摂を拒絶する「なにか」は、やはり適当さの中に押し込めざるを得なかった。

「冬場は概日リズムの影響で、どうしても睡眠時間を増やさないと、人間って身体が持たなくなるものですよ」

そう言って、産業医は柔和な表情を顔に浮かべた。ああ、概日リズムか、と思った。せわしない労働に急き立てられる内に、私は私の身体の内に、私と同じ部屋で共に暮らしている植物たちと同じゼンマイが埋め込まれていることをすっかり忘れてしまっていたようだ。

それから、何か問題があれば薬も処方出来ますので、と言う産業医を置き去りにして、私はそそくさとカウンセリングルームを後にし、オフィス階に戻るエレベーターに飛び乗った。

エレベーターの中では、概日リズムのことが頭から離れなかった。向精神薬を服用してまで働くなんてウンザリだった。だが、向精神薬を服用した状態で働くことが、暗に世間のデファクトスタンダードと化してきているのであるとすれば、私もいずれ向精神薬を呑まされる運命であるのかもしれない。

喜びも悲しみも偏平な世界で、「何もかもきっとよくなる」という呪文を唱えながら、ぼくらはいつか太陽光の代わりにセロトニンのシャワーだけを浴び続けるようになるのかもしれない。そして、宇宙が奏でるメロディーへの慈愛を忘れ、ぼくらは真っ暗な宇宙空間にバラバラに投げ出された原子として、荒涼とした無機質な世界をあてもなく浮遊し続ける内に潰えるのかもしれない。ひょっとして、ぼくらはぼくらが根を張る宇宙とのつながりを断ち切ることを「強さ」として捉えているのであろうか。なにがぼくらを根こぎにしてしまったんだろう。こんなにもぼくらの身体は大地への郷愁に駆られて熱を持っているというのに。

私は太陽が恋しい。だから今日も明日も、植物たちと共に暮らすのだ。彼らが太陽を欲する姿は、私が太陽を欲する姿そのものなのだから。

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