2022/01/15

昨日は仕事で色々なイベントがあって精神的に疲弊していた事、また金曜日である解放感も相俟って、帰宅後にロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』を見ながら深酒をしてしまい、気付いたら寝ていた。セックスフレンドからのメッセージに返信するも、(自分の行動ログ的にいかにも酔うとやらかしがちな動きではあるが)あまりにも理屈っぽい言葉を送信してしまった事に自責の念が働いたため、送信取消しをして適当に「ちいかわ」の話を振った所までは記憶があるが、正直そこからは記憶がない。タブラ・ラサ。イレイザー・ヘッド。私の頭の中の消しゴム。

昼前に起床し、階下の母親に声を掛けたところ「また酒に溺れている」と呆れられたが、溺れる対象が存在しないよりはおそらくマシな人生でしょうと気を取り直した。元々特に予定もないし、都内のコロナ感染者数も爆発的に増加しているので敢えて外出する気分になれず、かといって酒が地味に残っているせいか勉強に打ち込む気力も湧いてくれなかったので、引き続き昨晩見ていた『田舎司祭の日記』の残りをダラダラと見ながら酒を飲んだ。

学生の頃、ロベール・ブレッソン研究の発表を聞く機会があり、折角ブレッソンの名前を知っているからには1本ぐらいブレッソン作品を鑑賞してみようかと思い、元々はちょうど昨年の6月ぐらいから 4Kデジタル・リマスター版で『田舎司祭の日記』が劇場公開されていたものを見に行くつもりだった。あれこれしている内に上映期間が過ぎてしまい、地味にショックを受けていたところ、久しぶりにAmazonプライムを確認したら同作が視聴可能となっていたので、思わず飛びついたというわけである。後で気付いたが、ポール・シュレイダーの『タクシードライバー』や『魂のゆくえ』も本作に多大な影響を受けているらしい。実は今日『魂のゆくえ』も併せて鑑賞したのだが、こちらの感想は別の機会に譲りたいと思う。

■『田舎司祭の日記』

さて、ここからは『田舎司祭の日記』について少し書いてみよう。以下、ネタバレを含む点にご留意いただきたい。

本作は、北フランスの寒村に赴任した若き司祭が、その信仰心の純粋さや俗世との折り合いの悪さゆえに、閉鎖的な村社会から疎外され孤立感を深めていくとともに、静かに自らの身体を蝕んていく病魔という存在を介し、神に対峙する自己の在り方に苦悩する一人の青年の姿を描いた一本である。

彼はとにかく何をやっても上手くいかない。胃の調子が優れないため赤ワインに浸したパン以外は食事として受けつけない様子(要は毎日が聖餐である)を上司に叱られ、村人の声を聞こうと自転車で村を回ると雑にあしらわれ、村の子供と教理問答をやってみれば、敬虔そうな少女と出会えたと思いきや子供達にすら陰で小馬鹿にされる。我が子を失い、失意のどん底にいる伯爵夫人の信仰心を吹き返す事に成功したと思いきや、翌日その夫人が突然の心臓発作で命を落としてしまう。こんな感じで、司祭の持つ信仰への生真面目さは村人の俗物性や運命の気まぐれと摩擦を起こし、全てが空振り状態に陥ってしまうのである。また、赴任以前から抱えていた胃の不調もますます悪化し、彼が日記に綴る文字も徐々に弱々しくなっていく。

彼は、終始苦悶の表情を薄っすらと浮かべている。だが、あるシーンだけは例外である。それは、体調の悪化を危惧して医者にかかろうとした彼が、若い帰還兵が運転するバイクの後ろに乗るシーンである。司祭として教理に則った禁欲的な生活を送り、聖書の言葉を村人に伝えるという常に聖俗の境界に立つ事を強いられる彼が、若い帰還兵の背中に身体を預け、道路を滑走するバイクの速度に恍惚とした表情を浮かべる様子は、終始モノクロで展開される静謐とした本作が、一瞬カラーになったかのようなダイナミズムを感じさせる。そう、彼は若かったのだ。いや、自分が若者である事をここでようやく自覚したのだ。結核ではなく、末期の胃癌である事実がもうすぐ告知されるというのに。

彼も、神学校時代の知己のように還俗し、司祭という職を離れる決断も出来たはずだ。彼をバイクに乗せた帰還兵が述べたように、彼も司祭服すら脱いでしまえばただの若者である。だが、彼は日記を書き続けた。そして信仰をやめなかった。知己の前で彼が最期に遺した言葉が「全ては神が恩寵だ」であった事は、すなわち彼が、十字架にかけられるキリストに自らの姿を重ね合わせていた事を意味するであろう。

自分が若くして死ぬという差し迫った事実も含め、信仰生活の中で無数に襲いかかる不条理な苦しみをなぜ自分が負わねばならないのかという問いかけに、神が応答しない事自体が神の恩寵の徴である事を死の淵で悟った彼は、キリストとの一体感とともに一人の信仰者として静かに息を引き取ったのではないかと思う。強烈な映画だった。

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