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浴室闘争

 甘く匂う闇のなかで、ヒカリゴケのように薄明るいマットレスに寝そべって誰かが来るのを待っていた。どこかしらに精液が染みているに違いない、いつ交換したのかもわからないマットレスに寝そべっていても僕は平気だった、というか、そんな不潔な闇の底に寝そべるだけのかすかなスリルのために入場料を払ってもいい。ヤれない日があっても別によかった。あの闇の不安に身体を浸すだけでいい。ぼくはそこに満ちる悪しきものを吸い込んで、闇の一員になる。闇が膨張する。闇が勃起し、僕も勃起する。 

千葉雅也「マジックミラー」『文学ムック ことばと』vol.1、書肆侃侃房、2020年、17頁。

 仕事でイライラしたので、酒に逃げた。
 「これをやれ」と言われたから、言われた通りの手順を踏んで「これをやった」のに、僕は「これをやれ」という指示を君に出していないと当たられた。君と僕の間で認識がズレていたのだろうと話を丸く収められたが、納得できなかった。テキトーに納得したフリをしたが、私は表情と声に感情が出やすいタチなので、電話越しで先方に自分のイラ立ちが伝染してしまったのではないかと不安でしょうがない。
 マニュアル通りの対応を取れば叱られる。その「叱られ」を踏まえて行動すれば、今度はマニュアルに則していないと叱られる。一体私に何をさせたいのだろうか。コトバの恣意性に完全に振り回されている。アレやコレ。私と他者は同じコトバを介して繋がっているようだが、それはあくまで建前であると思う。建前を維持せねばならない。維持することに意味がある。いや、維持することに意味があると思わねばならない。無意味さの意味。

 酒を飲みながら、若かりし頃のラッセル・クロウ見たさに見かけたまま放置していた「L.A.コンフィデンシャル」の続きを再生した。街を牛耳るマフィアのボスが逮捕されたことに伴って縄張り争いが激化した1950年代のロスを舞台に、ある猟奇殺人事件をめぐって繰り広げられた、ロス市警内部のいびつな権力闘争を描いた作品であった。ガイ・ピアーズ演じるエリート刑事エドの立ち回りを見るに、組織の中で勝ち上がるためには、内部で生じた不祥事を「何事もなかったかのように」丸く収める能力が必須なのであろう。四角いものを丸くしていく。丸くするためには、四角いものを利用し、それを利用し終えたら視界の外に放擲せねばならない。四角いものとは、ディスポーザブル (disposable)なのだ。

 ラッセル・クロウは若かった。よくも悪くも直情径行で暴力的だが、めっぽう鼻が利く警官バズを演じていた。私が知り得ているラッセル・クロウの姿はジジイ――――誤解しないでほしいが、ジジイだから魅力を感じないという意味では全くない。というか、ジジイの彼が魅力的だから、若かりし頃の彼の姿に関心が湧いたという流れである――――だけれど、もちろん彼にも若い頃があり、そして若い頃の彼は、私が知り得ているジジイの彼が持つ「あの」感じを既に含んでいた。

 確かにあのユウくんの「あの」感じが生き生きと現存している。でも、その「あの」が、いまや積もり積もった贅肉に沈んでいる。僕は彼の全身を、石の塊からその「あの」を慎重に削り出すようにして眺めていた。ユウくんとは一度ヤッたことがあった。あの体はそのときは、なだらかに筋肉が起伏する完成された一個の彫刻だった。それから年月を経て、ユウくんは無垢の大理石に戻ろうとしているのだろうか。そしていつかは大地の奥深くへと戻って眠るのだろうか。
 頬には腫れたように肉がつき、元々目立つ方だった笑い皺は年齢の皺に変わっていた。お腹が張り出している。

―前掲書、11-12頁。

 私は昔の映画を見るのが好きだ。今はもう年老いた俳優たちの若かりし頃の姿が、フィルムという狭苦しいハコの中に閉じ込められ、世界中の不特定多数の人間に「娯楽」として繰り返し提供し続けられている感じ、もしくは歳月が人間の肉体に与える影響が可視化させられている様子に惹き付けられるのかもしれない。押し続けられる再生ボタンと停止ボタン。ハコの外に放擲された俳優たちと、ハコの中で演技を続ける俳優たちの姿を眺める観客たちは、時の流れに押されて日に日に老いてゆく。ぼくらは他人のセックスを安全閾から盗視することに快楽を見出すタチなのだから、老いという罪業を被ることは当然なのだ。その一方で、ハコの中を泳ぐ魚たちは、いつまでもハコの中を泳ぎ続ける。彼らはハコの外の世界に視線を向けることもなく、永遠の若さを手にするのである。井の中の蛙大海を知らず。

 飲み過ぎて重くなった頭を抱えながら、朝、シャワーを浴びる前に、自分の身体を風呂場の全身鏡に映してみた。抱いてみても大して面白みのなさそうなつまらない身体だと思った。年々加齢のせいか、痩せてきている。肌のハリだって十代の頃と比べれば、明らかに低下している。私が「私はもうババアだから」と言うと、まわりにいる誰かは決まって「君がババアなら他の女はどうなるんだ」と突っ込んでくれるのだけれど、私はありのままをそのままコトバに出しているだけだ。言語化できるぐらいに、自分の肉体がカーブを描いて地面に還ろうとする欲望を感じるのだ。

 いつか私は誰にも性的に求められなくなる。私の肉体は、刻々と朽ちていく。今の私の「感じ」は、月日を隔てた私の肉体に、どのように刻まれていくのだろうか。どんなに否定しようが、いつかその日はやって来る。誰かとヤレる可能性が可能性として機能してくれている期間もわずかなのだから、どうして好きなだけヤラずに我慢しているのだろう。今の私は「恋人を募集している」という体裁を保つことで、「好きなだけヤる願望」を自分の奥の方に押し込めているのだと思う。アレとコレが厳密に合致する確証なんてどこにもない。コトバが恣意的であるように、セックスと恋愛の関係性だって恣意的だ。あえて「恋人」という看板を付すに相応しいと判断すべき相手――――思うに、まず人間同士に何らかの深い関係性が構築できたとして、どうしてもというのであれば、その関係性に「恋人」という看板を付ければよい。「恋人」という看板だけならいらない。名前ありきで構築される中身のない関係性は、私の関心の範疇にない――――と出くわすことが出来るかどうかは、いくら行動しようが結局のところは運である。私にはどうしようもない。
 そもそも「貞節」とか、もっと言うと「約束」というものが本質的に何を意味するのかが自分にはよく理解できていない。「私は君としか寝ないよ」「一生君を愛します」と言ったところで、私が君以外と寝る可能性を払拭できるかどうかなんて知ったこっちゃないからだ。明日には、君の事なんてどうでもよくなっているかもしれない。そのクセ「恋人にしたい人間が目の前に現れる」という「どうしようもないこと」のために、社会的体裁という安全閾にもたれかかりながら、私は前述した「ヤレる可能性」を削っているのだ。バカじゃないの。

 ところで、「(ヤレる)可能性」の現実化をどこまでも追及した場合、ぼくらはどこに行き着くのであろうか。ちなみに、この追求者の一例として、村上春樹の『ノルウェイの森』を引き合いに出した場合、永沢を挙げることができるであろう。見知らぬ女と寝ることに抵抗感を示す主人公「僕」が、学生寮の先輩である永沢に派手な女遊びの理由を問うた際に、彼はこう述べる。以下の主張は、永沢の人生論とも直結する点であろう。永沢が人生において価値を置くものは、理念ではなく行動規範であった。永沢は、世界というゲームを自己の能力を発揮する「場」として捉えている。だからこそ「場」に転がる無数の可能性を、彼は見過ごせないのではなかろうか。

「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。」

村上春樹『ノルウェイの森 (上)』講談社文庫、2009年、74頁。

 さて、千葉雅也の「マジックミラー」では、ハッテン場で場数を踏むにつれて、ボックスの中の廊下に常狭しと肩を並べる男たちに「見られる存在」であった主人公の「僕」が、ボックスの中に広がる「闇」と一体化していく。「場」に馴染んだ立ち振る舞いを身体化することのみならず、実際に肌を黒く焼くことで、彼は自らの肌の色までをも「闇」と交わらせていくのだ。また、「見られる存在」としての僕は、「闇」の中に深く身を浸すという経験を経ることで、今度はハッテン場を訪れる男たちを「傲然たる眼差しで品定め」(「マジックミラー」18頁)するようになる。

 つまり、「僕」行きつけのゲイバーである「ひこひこさんの店」に新たに設置された防犯用の監視カメラが、店を訪れた客の姿を記録していくように、二十数年という時を経て、「僕」の方も男たちを「見る主体」へと変貌していくのだ。「闇」は、不気味なものを包摂していく。まるで監視カメラが来客という「異邦人」の姿を録画し、男を品定めする男が、「他者」が自分の身体を侵犯する瞬間性に身を開くように。思うに、可能性を見過ごさないようにするためには、自分が自分の所有下にあるという感覚を派手に棄てた上で、自分を世界という「闇」と一体化させる強烈な経験を経る必要がある。目の前が真っ暗になり、自分が自分であることから真っ逆さまに落ちていく類いの経験とでも言えようか。

 私は、自分の身体が老いていく感覚が、可能性が可能性として機能しなくなる感覚と連動している気がするのだ。もっと可能性と戯れたい。身体ごとアヤフヤな状態に持っていけば、何か見えてくるのかもしれない。何にせよ必要なのは、きっと破廉恥になる勇気だ。言いかえれば、頭をカラッポにして動物になり、世界という浴槽に、頭も身体も沈み切ってしまう勇気ということなのかもしれない。酸素なんて邪魔だ。もっといっぺん沈める所まで沈んでみたい。

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