『浜辺のアインシュタイン』を観た/聴いた(2022年10月・横浜公演)

『浜辺のアインシュタイン』

まず事前情報。私は以下の公演を聴きました。

  • 『浜辺のアインシュタイン』(原題:Einstein on the Beach)は、アメリカのロバート・ウィルソン演出、フィリップ・グラス作曲のオペラ作品。初演は1976年。当時、ヨーロッパ、アメリカで大盛況。日本での演奏は20年以上ぶり(なはず)。作品詳細は省略。(気になったならググったり、調べたりしてください)
    過去の日記でこの曲が好きだということをちょっと書いた

  • 演出・振付は平原慎太郎。指揮はキハラ良尚。

  • 私が聴いた公演は、2022年10月8日(土)、13:30~の公演。途中25分休憩を挟んで、4時間くらいの公演(長くてビビってた)。

  • 公式サイトはここ。いつデッドリンクになるかわかりませんが。

全体的な感想

一言で言うと、本当に良かった。素晴らしく感動した。一生に一度体験できるかわからないオペラを、体験できて良かった。4時間という長さ(休憩があったので演奏は3時間半)でも、辛さを感じなかった。

会場もかなり人が入ってた。キャパ約2,500人くらいのところで、多分7~8割くらいは入ってたかな。こんなマニアックな公演で!
会場の雰囲気も、終わった後は拍手喝采で鳴り止まず、スタンディング・オベーションも。カーテンコールも何度も繰り返されるほどの大盛況。お客さんが温かい。これは会場の雰囲気として良いですね。私もスタンディング・オベーション。

で、どこが良かったのか、という点は全部は言語化できないんだけれども、以下に、要素別に感想を書いていきたい。でも、私が個人的に気になった(つまり悪いと思った)こととかもちゃんと書いておきたい。

音楽の演奏について

音楽の作曲作品の良さについては、一切言及しない。ここでは演奏についてを述べる。

音楽の演奏は本当に素晴らしかった。この曲における素晴らしさというのは、おそらく、「どう情緒的に演奏するか」とか「解釈がどうか」とかではなく、「ピタッと合わせてミス無く演奏する」に限るんじゃないかと思う。その意味で、演奏は完璧だと思った。(あくまで、この曲においては!)

指揮の正確さ、そして演奏者個々人の集中力。繰り返しが異常に多く、そして全曲を通してハイテンポな合奏を、ここまで完璧に演奏しきるというのは、プロの演奏家としてもこれまでの演奏訓練とは別の技術を要することが簡単に想像ができる。人間はここまでできるのか…という身体的な凄さや、その訓練を成し遂げ本番でミスをしないという、まさに音楽に命をかけて臨んでいることがはっきりとわかるという感動も加わる。キーボード、ヴァイオリン、管楽器、合唱、そして指揮。どれもが完璧を追求していた。

特に圧巻だったのは、ACT IIIの"Dance 2"で、キーボードとヴァイオリンがユニゾンする部分。15分くらい同じようなパッセージが続く中で、突如変拍子が入ったりする。特にヴァイオリン奏者は指揮者からかなり遠く離れて舞台に上がって演奏していたが、つまり指揮がない状態で合わせていた可能性が高い。この状態でキーボードとヴァイオリンが完璧にユニゾンしていたのは、圧巻だった。これだけの速弾きかつ長時間の反復の中で、ヴァイオリンのピッチが全然外れないのも素晴らしい技巧。キーボディスト2名も、おそらく腕と脳を限界ギリギリまで酷使しているのではなかろうか。

えーと、でも書いておかなきゃいけないことととして、神奈川県民ホールについて。これは、、、良くなかった。キーボードを使ったり、セリフがあったりの関係で、スピーカーを使う。そして全楽器、全合唱も当然、マイクで音を拾ってスピーカーで拡張する。私は上の階で聴いてたんですけど、音量バランスがすんごい悪かった。キーボードの音メチャクチャ大きく、特にフルートが聴こえにくい。これは私なりに原因を考えたんですが、スピーカーが1階にしか無いからじゃないかな。何にせよ、今回の曲を演奏するにあたっては、難しいホールだったのでしょう。

詩の読み上げが日本語だったことについて

これはとても良いリアライズだったと思った。全編に渡って意味が抽象化された演出のオペラの中で、詩の部分というのは、「意味」がある部分と捉え、観客に意味を伝えるということを重視した結果、日本語で読み上げたのだと解釈した。つまり原語としての英語の響きは、音楽の中の"One Two Three Four…"という部分に止め、詩は意味を伝えることに徹する。

これが相当良かった。というのは、これまでの欧米の録音で英語の読み上げを聴いていたが、どういうことを言っているのか知らなかった。それが日本語で読み上げられたことで、「そんなこと言っていたんだ!」と、オペラ全体の印象がガラっと変わった。フェミニズム的要素が多分に入っていたりした部分は、70年代という時代の強い影響下だったことを改めて知った。そしてオペラ全体が意味が抽象化されているのに、最後のKnee play 5で愛の詩の朗読があったのが、「なんでここで急に具体的な愛の詩なんだよ!?」と笑ってしまった。こんな終わり方だったのか!と、新しい発見があった。

舞台演出、振付について

(前提:私が「初演時の演出・振付」として参考にしているのは、Théatre du Châteletで2014年に上演されたものを、初演時に近いものとして語っています。これが初演と全然違っていたらごめんなさい。)

舞台演出と振付は、全て完全に一から作り上げられたものだった。事前にそう案内されていたが、ここまで全てガラッと変えるんだなという驚きはあった。初演時のロバート・ウィルソンの演出をそのまま再現するという再演の仕方を今の時代にやるよりも、新解釈で新たな演出家をつけてやる、というチャレンジに大きな意義があるのは理解できたし、素晴らしいと思った。

ただ正直、この演出が良いか悪いか私には全く判断がつかない。少なくとも、まずオペラというより、コンテンポラリー・ダンスを観たな、という印象が強い。いや初演時もコンテンポラリー・ダンスなんだけれども、1970年代のミニマリズム的な演出とはかなり違うコンセプトが働いていたと思う。

初演時のウィルソンの演出、ルシンダ・チャイルズの振付は、場面場面の、ある一つの要素を少しだけ切り抜き、それを執拗なまでに反復したりすることで、ぼんやりとながら、「こうしたイメージなのかな」というのが浮かび上がったりする。衣装もモノトーンで、それこそ不要な要素を排除するようなミニマリズムが追求されたように思える。

例えば、ACT Iの"Train"では、列車が到着したときの駅員の動き、とか、乗務員の動き、みたいなものが何となくわかったりする。あとは、科学者が黒板に何か書いてるイメージなのかな、とか。"Trial"(裁判)では、古風な裁判官のイメージの衣装とか、陪審員、傍聴席とか、まぁ、ある意味ではかなりわかりやすい。少なくとも、副題と場面のイメージは相当一致している。

今回の平原の演出・振付では、まず、副題と演出が全然違うものになっている。"Train"で、列車をモチーフにしたような舞台演出、振付は、観た印象では全然無く、関係ないイメージのものが大量に出てくる。「大量に」というのもの今回の演出・振付の特徴で、広い舞台上で、数々の演者がそれぞれ独自の動きをする。

ダンスというか、身体で見せるものには、大きく、二種類あるのではと考えている。

一つには、身体の動きそのものの面白さや、新しい動きそのものを追求するような、そういう身体の使い方。上手く例えられるかわからないし、ちょっとイメージ違うけど、ものすごい速さでグルグル回転するとか、凄いよね、あの動きそのものが面白いよね、みたいな。

もう一つは、動きに意味を付帯させるような身体の使い方。例えば、「驚き」みたいな感情を身体で表現して、と言ったら、まぁ多くの人はイメージしやすい「驚き」を表現できたりするんじゃないか。

コンテンポラリー・ダンスにおいては、この「意味を付帯させる」という身体の動きを、かなり複雑に、そして抽象的なことをやろうとするわけだ。振付家が、ある物事をイメージして、そのイメージを身体の動きにして、それを何重にも重ねていく。その過程で、「意味」というのは残滓の部分しか残らなかったりして、結果として抽象的な身体の動きになっていたりする。観客はその身体の動きから滲み出る「意味の残滓」の積み重ね全体や連続で、作品全体(あるいはパート全体)でどういったイメージが想起されるのか、というのを考えるのが作品の楽しみ方かなと思ってる。だから、一つ一つの動きや部分に対して、観客が「この動きは何を表してるのだろう?」と考えたところで、わかるはずがない、というのが私の考えだ。

その意味で、平原の演出・振付は、私にとっては要素が多く、速すぎ、複雑で、わからないものが多かった。「わかる」っていう状態が何なのかというのもあるが、少なくともウィルソン、チャイルズの演出・振付の場合は、要素が極限まで少なくされている分、逆にわかりやすくはあるのだと思う。

例を挙げると、仮面をつけてハットをかぶった男が、舞台袖から、緑のカバーがかかった救急用の車輪付き担架を持ってくる。で、これを開けると、ビニール袋に包まれた何かが出てくる。ビニール袋を丁寧に開けていくと、中から人が出てくる。ビニール袋に包まれたまま、その人が踊ったりする。その周りでは、別のダンサーたちが、全然別の動きをしていて、別の小道具、別の大道具が出てきて、そしてまた別の人が違うところから出てきてバラバラのダンスをして…、みたいな感じ。一つのダンサーの一つの動きを「何やってんだこれー」と見ているうちに、他のところで他のことが起こっていたりする。こうした感じが全編にわたっている。こういったように、登場人物や小道具、大道具がものすごい多い。

「シンプル」と言える要素はほぼ無い。私にとっては、ちょっと「イメージを想起する」前に次から次へと色んな演出・振付が目まぐるしく変わるので、おっつかない。集中できないと言い換えても良い。全体として強く印象に残る要素が、、、実は音楽より少ない。

その理由の一つが、先にも書いた、副題と振付の分離にもある。副題(タイトル)というのは、観客にイメージを与えるための、唯一と言っても良いくらいの「ヒント」だ。もちろん、そのイメージを強制させないために、副題とイメージを分離した意図なのだろう。しかし観客からしてみると、その疑問が拭えないまま、「いつどこで列車があるんだぁ?」とか、「宇宙船はどこだぁ?」と探してしまうわけだ。そうするんだったら副題も消してほしかった。

音楽がハイテンポなパートが多い中で、舞台も目まぐるしく変わる。演出家や出演者たちは繰り返し練習するなかで、それぞれ何度も何度も反復する中で想起されるようなもの、イメージするものがあるのかもしれないが、初見の観客の私にとっては、複雑過ぎた印象だった。より粗野な言葉を使うと、典型的な「わからんゲイジュツ」がてんこ盛りだった…。(ある程度のゲイジュツを見慣れた私がこう言うのだから、それこそゲイジュツに触れたことがない人だったら何が何だか、って感じじゃないかなぁ。)

とは言え、要素要素ではクオリティが高く、こだわった部分もハッキリわかる部分も多かったのは確か。そして美的な部分、つまりセンスで勝負しているぞ、という点も感じられた。そしてこの舞台なくして、この音楽は聴けないという印象も持った。でもそれが何でなのかは、自分の中でまだ消化しきれていない。

演出で極めて良さを感じた部分は、ヴァイオリン奏者が舞台に上がって、ダンサーたちの中で演奏をしていたところがあった。これはウィルソンの演出でもあるのだが、今回の平原演出でも踏襲されていた部分があった。単純なことだが、ヴァイオリン奏者だけでも舞台に上がることで、音楽がBGMではなく、一体となって総合芸術として作り上げられていることが明確になっていた。

ダンスについて

ダンスは、個別個別に見ると、一人ひとりは当然クオリティが高いと思います。それぞれのダンサーはかなり面白い動きが多分にあったし、身体表現として、明らかにプロだなと感じる点が多かった。

ただし、どうしても比較してしまうのが、音楽の演奏とダンスのクオリティがマッチしていたか?という点。ぶっちゃけダンスのクオリティは、音楽の演奏のそれに全く届いていない部分がちょくちょくあったのが気になった。

例えば、最終楽章にあたる"Spaceship"(宇宙船)の最後は、ダンサーたちが同じ動きをするのだが、これがズレズレ。わざとずらしているのではなく、本来はピタッと合うべきところが、ズレている。例えば音楽でズレなんかあったとしたら?と考えたら、「演奏ミスがひどかったね」という印象が残り、一発で終わりなわけだ。音楽では許されないことが、ダンスでは許されるのだろうか?と、ちょっと業界の温度差を感じざるを得ない。出演者の多くに、20代、下手したら10代の若手が居たようだ。若い人たちが活躍するのは素晴らしいことだが、先述した、それこそ命を削るような演奏をしていた演奏者たちに比べて、ピタッと揃えることができないダンサーたちには、少し残念の部分もあった。

あと音楽とぴったり合ってる部分と、やっぱりどうしてもズレてる部分も目立った。これは、リハーサルの関係なんじゃないかと想像した。ダンサーと演奏者が同時に揃ってリハーサルを行うのは、多分、そんなに多い回数ではできない。そのためダンサーたちは、録音された音源を使って練習したりとかしてたと思う。そうして本番前にいざ生演奏と合わせるとなると、ちょっと違うことになったりするのかなと想像した。難しそう。現実的に、時間と予算の関係で、これが限界なのもわかった。

いや、色々書いておいてなんですが、物凄くピタっとあうところもあったし、そうなると物凄い気持ちいいのは確か。「ダンス、スゲェ!」と謎の感動がある。

大友克洋が描いたキービジュアルについて

これは普通に良かったと思う笑。印象付けられるイラストで、普通にキレイだし、多分偶然だろうけど、Knee Play 5の最後にピッタリ重なる(むしろ演出家が重ねた?)のも、すごく合っていて良かった。

以下のインタビューのめんどくさがり方とかもメチャクチャ面白い。

公式サイトより

疑問:作品の同一性について

あとこれは、曲を聴きながら湧いてきた単純な疑問なのだが、作品の同一性ってどうやって担保してるんだろうね、という点。

演出・振付(あとは舞台美術と衣装も)が、全て今回の公演で一から作り変えられていた。これはもはや新しい作品だよね、と。なのに《浜辺のアインシュタイン》と名乗っている。

良いとか悪いとかではなく、ダンス?演劇?あるいはオペラ?っていうのは、こんなにも元の作品を変えて、それでもなお同一の作品とするのかな。「いや、音楽が同じなんだから同じ『浜辺のアインシュタイン』なんだ!」と言われりゃそれまでだけど。あるいは、「これは全く新しい平原の作品として上演したんだ!」と言われりゃ、それもそうか、と納得できる。でも更に考えると、ではなんで音楽はそのままなわけ?とか。演出・振付を変えて独自の作品にするのであれば、音楽も変えちゃえば良いのに、とか考えていた。

ここで、「業界の違い」みたいな力学が働いているようにも思えた。舞台芸術っていうのは、同じ作品でも、その都度で演出家・振付家が自由に解釈をして、何度でも違う作品を作る。対して音楽は、「作曲家が書いた楽譜通りに演奏するのが是である!」という、(コンサート成立以降の)美学が業界に暗黙の了解としてあるわけだ。今回も、革新、斬新、伝説、と言われつつも、この一線を超えることは無かったわけだった。それが良いとか悪いとかいうのではなく、「音楽業界」が持つ美学は強いんだなぁという改めて実感したところでもあった。

個人的には、別にその一線というのはもっと簡単に超えてしまえばよかったのに、とも思う。が、別に超える必要もないという判断も全然アリだし、超えたとしたら、「作曲家の書いた楽譜通りに演奏しないなんて!!!」みたいな物凄い批判が来るのはあるだろうことは簡単に想像できる。
私が考えていたのは、「楽譜通りに演奏する?」ということが議題に上がったのかどうかが重要なんじゃないかということ。これが議題に上がった上で、楽譜通りに演奏することにしたのならスッキリするが、議題にも上がらなかったとしたら、もうちょっと新しいことやろうぜ、という気持ちかな。

終わりに

まだまだ言語化していない部分も多いし、まとまってもないし、拙い感想文だけど、この公演を聴いたときの感想を、早いうちに残しておかねば!ということで一気に書いた。がーっと書いたので乱文御免。

色々書いたけど、冒頭に書いた通り、終わった後の感動は凄かったし、自分の中で新しい発見もたくさんあった。つまり音楽の聴き方の価値観が更新された。私は、このように、音楽を聴く価値観を更新してくれる音楽というものが最も良いものだと思う。

あとこれは褒めて欲しいのが、私は全部で3時間半くらいの演奏で、一切寝落ちしなかった。(周りのお客さんたちは結構寝てた。)
かなり集中して聴けていた。

このあたりでまず終わりたい。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?