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「べき論を手放す」ということは、常識なども手放さなきゃいけないのでしょうか?

【初めての方へ】ご挨拶とご案内。

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【ご相談ここから】


送信者:チョコキャラメルさん


先日の記事ではやる気が出ないことへの相談にお答えいただきありがとうございました。

少し、やる気の出ない自分を責める気持ちがあったのでほっとしました。


今日過去記事を読んでいて疑問に思ったことを教えてください。
この記事です。


・自分に対する「こうすべき」がとても強いぶん、相手に対する「こうすべき」も非常に強くなりがちで、相手をコントロールしようとしがち

・自分の思い通りにならなかったり、相手が思った通りに動いてくれないときに露骨に不機嫌になりがち、もしくは気持ちを抑え込んで後々爆発しがち


この箇所ですが、私は自分への「べき」が強く他者にも要求しがちな自覚があります。

子供の頃からです。母親に学校で良い子でいることを一番に求められていました。あらためていきたいと思っています。


でも上記のようなことが、私のべき論だけでなく、世間の常識からみても「それはちょっと…」という、自分をないがしろにされた気がする場合でも腹を立てずに流さなければいけないのでしょうか?

または「べき」を手放せば、気にせずに流せるようになるのですか?

自分の基準があやふやになってきて悩んでいます。

指摘しても我慢しても、最終的には自分を責める方向に意識が行きがちです。
どう考えればいいのか教えて頂けたら嬉しいです。



【ご相談ここまで】



チョコキャラメルさん、再度のご送信ありがとうございます!嬉しいです!

先日はこちらの記事でお答えしましたよね。




ーー少し、やる気の出ない自分を責める気持ちがあったのでほっとしました。ーー



先日の記事を読んでほっとしたと言っていただけて嬉しいです!

それと、先日記事の時にチョコキャラメルさんはRKサロンに入って1週間ほどと言っていましたが、色々記事を読んでくれてるみたいで嬉しいです!

ぜひ引き続き、色々読んで学んで分からないことがでてきたら気軽に質問してくれると嬉しいです。



あ、そうそう。RKサロンの話題が出たので一旦お知らせを、、、



RKサロンメンバー掲示板で新しく「自分軸日記」というコンテンツを始めました。


自分軸日記は、RKメンバーが毎日ふと気づいた時に「自分軸」に戻るための、みんなの共同日記です。

メンバーは数行でも1行でも一言でも、「今日できたこと」「今日思ったこと」「今この瞬間に気づいたこと」「自分自身へのいたわり」「自分自身へのメッセージ」をコメントしていってもらえたら嬉しいです。

自分軸や自己肯定感を手に入れるためには毎日の日記や内観が大切なんだよ~ということをよく書きますが、「なかなか一人だと続かない」「疲れてる時は書き忘れてしまう」という人も多いと思います。

なんだかんだ日記ってサボりがちになっちゃいますし、後回しにしがちですよね。数行でも1行でも日記を書くことは効果的なのですが、それでも一人でやると習慣化って難しいです。

自分軸日記はメンバーみんなが書き込む共同掲示板なので、みんながみんなに「見られてる」ということで…笑
背中がシャキッとして比較的続けやすいんじゃないかなと思います。

毎日のちょっとした日記の習慣化のためにも是非、自分軸日記を活用してもらえたら嬉しいです!



ーー私は自分への「べき」が強く他者にも要求しがちな自覚があります。ーー

ーーでも上記のようなことが、私のべき論だけでなく、世間の常識からみても「それはちょっと…」という、自分をないがしろにされた気がする場合でも腹を立てずに流さなければいけないのでしょうか?ーー



これはすごく良い質問だと思いまして、「べき論(観念)」ということを勉強して実践し始めたときにぶつかる壁のひとつだと思います。そして突き詰めて考えるとけっこう難解なテーマです。



難解なテーマを考える時にはまず、両極論(0か100か)を考えてみると整理しやすくなります。


チョコキャラメルさんの質問の場合の両極端を考えてみると、

①何もかもを「こうあるべき」という観念のあるがままにする

②何もかもを「これでも良いよね」と許可していく

という二択になります。

これは実は、両方とも苦しい人生になってしまいます。



まず①「何もかもを”こうあるべき”という観念のあるがままにする」というのは傷ついてきた自立系女子とかにありがちなやつで、パートナーや周囲の人だけでなく自分も怒りやモヤモヤに振り回され、苦しくなります。

自分の中の「こうあるべき」が強ければ強いほど相手への強制や強要やコントロールが生まれ、相手を許せなくなり、関係はギスギスしていきます。

もちろん自己否定が激しい状態なので自分が自分に優しくなく、いつも焦燥感や不安や怒りを抱えることになります。

心理的抑圧も激しくなり、究極、そこと向き合わないたくないがための「過食依存」「アルコール依存」「自傷行為」などにもつながりかねません。あるいは、精神的な病におかされる場合もあるでしょう。

私が「こうあるべき論は手放した方がいいんだよ~」というのは、他人に厳しくなり他人を傷つけてしまうだけでなく、最終的に最も傷つけられるのが自分だからなんですね。



では②「何もかもを”これでも良いよね”と許可していく」というのはどうでしょうか。

例えばチョコキャラメルさんも言うとおり、「世間で常識とされてること」「自分の尊厳を傷つけられたと感じること」まで許容しなければいけないという考え方はどうでしょうか。

例えば「私はべき論を手放すぜ」と言って、好き放題悪口を言われてるのに全て耐え忍んだり、理不尽なことばかりされているのに全て水に流したり、究極、痴漢や強姦や強盗や殺人を許容したりできるのか…ということです。

非常に極端ですが、これくらい極端なほうが分かりやすいですよね。



色々な解釈や整理の仕方があると思いますが、分かりやすいもので言えば、「自分の身体や財産に危害が及ぶことへの拒否」「自分の自由が侵害されることへの拒否」は、成長過程で身についた「べき論(心理的観念)」が由来ではなく、もっと生物学的・生理的・生得的なものだという見方ができます。

このあたりは進化心理学や「心の哲学」の話が入ってくるのでかなりややこしい話になります。興味がある方はぜひ進化心理学の本など漁ってみていただきたいのですが、専門家の皆さんからの批判を恐れずに言うのであれば、「死への怖れ」「自由を奪われることへの怖れ」は人間にとって非常に”生まれつき”の要素が大きいんですよね。(人間にとって何が「生得的か」というのは、まだまだ激論がかわされている分野です。)

赤ちゃんも身体のどこかが痛ければ、誰に教えられたわけでもないのに大泣きしますし、身体を不自由にされて拘束されればきっと泣き叫びますよね。



そして、「世間で常識とされていること」「多くの人が尊厳を傷つけられたと感じること(暴言や暴力など)」というのは、この生得的・生物学的な、いわゆる本能というものに根差している場合が多いのではないでしょうか。もっと言えば、そもそも「常識」の大元となっている「基本的人権」や「自然権(生命、身体、財産の自由)」は、ほとんどの人間に共通している本能が出発点となっているのではないでしょうか。

ここ、心理学で言う「観念」とは異なるケースが多いことに注意が必要です。

例えば「しっかりするべき」「ちゃんとするべき」「甘えてはいけない」というような自立系女子の観念は、きっと生まれつきのものではなく、成長過程で身についてきたものですよね。そしてその観念があることにより生きにくくもなります。



もちろん、「生得的なべき論(本能や常識など)」と、「成長過程で身につけてきたべき論(心理学的観念)」の間にはバッサリと明確な分け目があるわけではなく、細かく細分化しようとすれば折り重なる部分もあるというか、白黒ではなくグラデーションだとは思います。


ーー自分の基準があやふやになってきて悩んでいます。ーー


チョコキャラメルさんの言うとおり、そもそも基準はあやふやなものなんだという理解で良いと思います。

でも、べき論には生得的なものと成長過程で身につけたものの2種類があるという整理の仕方をすると、ある程度はモヤモヤを整頓できるようになってくるのではないでしょうか。



ちょっと抽象的で難しい説明が続いたので、以下もっと具体的に書きますね!


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