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虚構 その1

日の落ち切った後も絶えずアスファルトの表面に排ガスを撒き散らされ疲れ切っている通りを、俺は職場へ向かうため自転車を走らせている。
毎夜、目に入るものは、いつ投げ捨てられたのかすら分からぬほどに朽ちつつある、何処かから仕入れられた食材が、工場で加工されて出荷され、コンビニの棚に陳列され、それを誰かが買って食って、そいつの空腹を満たしたであろう食べ物の入っていたプラスチック容器と、退屈しのぎで誰かが吸い切ったであろう煙草の空き箱、そして時々車に身体を轢かれズタズタに引き裂かれたネズミや鳥の死骸たち…
すべてが不機嫌そうに路上の隅で転がっている。

…いまを生きている誰もが一度は感じる空虚で退屈で意味を持たせる事すら煩わしくありきたりな日常のひとつの発露…

意味のない俺の意識の上に、ふと、
ぼんやりと構築された言葉の羅列があるひとつのテクストのように立ちのぼってくる。

くだらない人間が自分の名前を冠したであろう薄汚れた雑居ビルにある職場に着くと、そのドアノブに手を掛けるのも面倒に感じながら

「おつかれさまです」

「おつかれさまです」

一見誰からも無愛想に見える社員の石川も、俺も一体何に疲れているのかも解らぬまま当たり前のように挨拶めいたこの言葉を今日も互いに交わす。

「川嶋さん、
一件目の立ち会いが20:30に撤収始まる予定なんで、もう向かってもらって大丈夫です」

「了解しました」

何が大丈夫で俺は何を了解したのかよく解らないまま社用車の鍵を手にして駐車場まで歩き、ボディの至るところをぶつけられて無様な姿になり果てた軽バンに乗り込んでエンジンを掛ける。

元々割合好きであった音楽を聴く事も、ひたすらくだらない事を大袈裟な声色で会話するラジオパーソナリティと出演者のやり取りを聞くことすら最近は鬱陶しく走り出しはいつもカーラジオを付けないでいるが、車を運転し続けてるうちにタイヤとアスファルトが摩擦する音とエンジン音との隙間から意識にのぼってくる数々の否定的で消極的な想念の数々があまりにも疲れを増幅し始め、結局それを紛らわせるために惰性でボリューム・スイッチへ手を伸ばしボソボソとアナウンサーが話しているAMにチャンネルを切り替えた。

一件目のスタジオに着き半開きになった扉から様子を伺う。
機材を手にしている中年の撮影クルーの男に

「お世話になっております。ビルトのスタッフです。あの、本社から搬出開始は30分からと伺っていますがお時間は宜しいでしょうか?」

と、声をかけるとその男は今日一日の労働に対する倦怠を含んだ眼球を一瞬俺に向けながら

「大丈夫です。たぶん20〜30分で撤収完了できると思います」

とだけ答えてスタジオの奥へ戻って行った。

「かしこまりました。では、下で、待機しております」

俺は部屋の奥へ向かってそう声を掛けつつ、どうせまたダラダラと撤収が始まるまで30分はかかるだろうなと忌々しく思いながらマンションの8階の部屋を改装したそのスタジオからエレベータで降りる。
携帯で本社に撤収の状況報告をしつつ残暑特有の蒸した空気の充満する外へ出て、汗ばんだシャツに更に汗を染み込ませながら撮影クルーたちの機材を下ろすのを待っていた。

…一体、今何のためにここに存在しているんだ…

意味のない問いが鬱陶しく、この想念を紛らわせるためにもう一度ポケットから携帯を取り出してニュースアプリを開いた。
画面を覗くと数年前に発生し近年最も社会問題となった無差別大量殺人事件の初公判が地裁で始まった事を報じる記事が目に入った。
事件の動機について語った被告の言葉が、弁護側と検察側双方の訴えとともにこう載っていた

「どこにも居場所がなく孤独を感じて自殺しようと思ったが、ひとりで死ぬよりどうせ死ぬなら大勢の人を殺して目立ってから死のうと思った。」
被告の弁護側は、被告は当時心身膠着状態であり無罪または情状酌量を求めると訴え、検察側は高い計画性をもった犯行であり犯行時においての被告は完全責任能力を有していたと主張している。二回目の公判は…

記事を読み終え胸の内で大きなため息をつきつつ、無辜な多数の人を巻き込んで殺めるまでに至ったこの被告の孤独な感情と俺を含めて今日言葉を交わしている者や被害者ひとりひとり感じる瞬間もあったであろう孤独な感情そのものに一体どれほどの隔たりがあるのだろうか…?
実はコピー用紙一枚も入らないほどの肉薄な差異すらないのではないだろうか?
例えばこの問いが真実だとしてなぜ孤独を感じる感情が環境に依っては他人の命をも奪う可能性を持っているのか?と、絶望的に重たい想念が意識を支配し始める。


「隆志、ごはんよ〜」

テレビの向こう側で熱狂的な応援歌とともにピッチャーの投げた硬球がバットにヒットする音と、熱のこもった大阪弁の解説者の声が混じり合って聴こえてくる野球中継を観ながら父はビールをグラスに注ぎ、母が残りの小鉢をお膳に乗せて持ってきた。

…孤独。

近くの家から魚を焼いた香りと白米が混じったような夕食の香りが漂っていて、それに引きづられて俺の意識にひとつの記憶が立ち昇っていた事に気がついた。
孤独が、俺の記憶の一部分を露光させ意識の内側へと感光する。

凡ゆる人の中にある記憶が今の自分を癒すのか、それとも今という意識が孤独の輪郭を更に鮮明にさせ深い絶望へと誘うのか、記憶と意識との関係とは一体…

ガシャンとエレベータ扉の縁を台車が通過する音が聞こえてくる。

「おつかれさまでーす、すいませーん遅くなって」

先ほどとは別の女の撮影クルーがエントランスから台車を押しながら耳障りな音程と声量で俺に言ってきた。

「おつかれさまです」

どうみても"嬉しがり"で少しでも目が合えば馴れ馴れしく誰彼なしに話しかけてくる雰囲気が漏れ出ているその女となるべく目を合わせないように努めて静かな声で返してやった。

どのような経緯で俺が今ここに立ち会っているのかも推察できないその女と後から降りてきた他のスタッフたちは、居酒屋から出てきた泥酔した客の様な声量でダラダラと会話をしながら車に機材を積んでいる。この中でまだまともそうに見える若い女の撮影クルーのひとりに

「申し訳ありません。周りの方からのクレームにも繋がりますので、もう少し会話を控えていただくよう協力していただけたけますでしょうか?」

図書館の司書が騒がしい利用者に言う様な定型の文句を言うと、
間髪を入れずに

「お兄さん、ごめんなさぁーい!」

と、例の嬉しがりの女の撮影クルーが音量調節の効かないスピーカーのように返してきた。

…お前は黙れ、うすのろ。…

心の中でそう呟きながら

「すみません、ありがとうございます」

と返した。

しばらくすると、その女を残し他のクルーはまたスタジオに上がっていった。

「ねぇ、お兄さんは何でこの仕事してるの?」

今まで目線を合わせていなくて気づかなかったがアメリカン・ニューシネマの映画ポスターがプリントされ首元の少しよれたTシャツを着たその女はさっきとあまり変わらない声量で俺に話しかけてきた。

「元々音楽を演ってまして…食い繋ぐためにはじめました」

「あー、確かにバンドマンっぽいもんねぇ〜」

…こういう自分の退屈しのぎのためだけに土足で初対面の他人に踏み込んでくる人間は心底嫌いだ、吐き気がする、俺の目の前から今すぐ失せろ…この後何も返事しないでいてやろうか?…

むくむくと嫌悪の度合いが高まるのを抑えて

「いやー、そうですかね?」

と微笑を含んで返してやった。

…疲れた。俺にはもうお前に対して何も返事する気力はない…

俺は努めて愛想良く返事してやったつもりであったが、微笑に似た表情の奥にある嫌悪と倦怠を感じ取ったのか、その女はそれ以上話しかけてこなかった。

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つづく… と思う。

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