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千葉大学発の起業家の告白|第三章|神崎陸

自立

2019年4月、別のインターン先を辞めることにした。友人の八代が起業することになり、その会社を手伝うことになったからだ。私は、副社長だった。会社を立ち上げ、彼は中高の同級生であった。私たちはお互いの強みがある領域で通販サービスを提供することに決めた。私はメーカーの営業手法や海外のベンチマークサービスの調査を担当し、彼は持ち前の積極性と面白さで人との繋がりや開発部分を担った。
まだ学生だった二人は、切り詰めた給料のみもらい、自分は実家から通い、彼は彼女の家からオフィスに通勤していた。この頃には、大学の授業と会社の仕事の両立がうまくいかなくなり始めていた。会社の新サービスの立ち上げに没頭していた自分は、授業のことは忘れ始めていた。
「まあ、なんとななるだろう」
と思っていた。
新しいサービスは、アメリカで伸びていた在庫を返品できる卸売の通販事業の日本版だった。アメリカのそのサービスは、卸売時に店舗が買った後に、売れ残った商品を返品できるというビジネスモデルだった。仕入れ先が売れ残った商品を返品できることによって、店舗側は在庫リスクを0にすることができる。一方、プラットフォーム側は在庫を返品されるので在庫高が増えるが返品のデータが取れる。そこからどういう商品が売れて、売れていないのかがデータベースとして貯まり、レコメンド制度が上がり、段々と返品率が減っていく。しかし、在庫高の分かなりのキャッシュが必要で、そのアメリカのサービスは何億円という額を調達していた。一方僕たちは、1000万円しか調達できていなかった。当時はそれがスタンダードで、1000万円から始めるという固定観念にとらわれていた。今思えばこのサービスをやるにはさらに大きなお金が必要だった。いずれにしても、1000万円で仮説検証をしないといけなかった。
サービスのコンセプトは決まった。あとは開発をしていくだけだ。開発をするにはエンジニアが必要だが、当時は外注せず内製化するということしか考えていなかった。理由は、前にいた会社がそうであったからというだけであった。そして、たまたま知り合いにエンジニアがいることが分かった。彼も中高の同級生で、当時はあまり親しくなかったが、SNSで声をかけた。
すぐにオフィスに来てもらって、面談をした。
「いいよ!俺が開発をやるよ」
そういった彼は当日に大きな期待ともに会社に入った。
彼が入ることが決まり、気運が高まっていた。
よし、開発しよう。その間、社長の八代は開発の方を要件定義などを進めて、私は営業を進めよう。
そこから2ヶ月、私は出店してくれそうな会社のリストを作るためのリサーチと営業資料の作成、実際に営業という繰り返しをおこなっていた。一方で、八代との方針の違いもかなりあった。自分は前職の経験からあーだこーだと意見を言ってそれが正しいと考えていた。一方で彼は、自分の頭で考えた意見を経験がないながらもスマートに意見をいっていた。たいてい、それは自分の経験からすると違っていて、彼の方針にすれ違いが発生するようになっていた。
7月に入り、段々と自分自身の仕事に身が入っていないことに気づいた。副社長という立場であったが、仕事は適当にこなすようになっていた。結局は、自分が主導して会社やサービスを作り上げたいんだっと思うようになっていた。
一度彼に言われたことがある。
ある時、彼と一緒に交流会のイベントに参加していた時、彼と一緒に名刺交換を回っていた。その時は、彼が社長であり前に出て自己紹介をしていたから、名刺交換がしやすい彼と一緒に回ることで効率よく自分も名刺交換できると思っていた。
このイベントのあと、「なんのために二人で回っているんだ、別々で名刺交換した方が名刺いっぱい集められていいだろう」っといわれた。
その通りだと思うと同時に、前に出て自分でやりたいと感じた。
徐々に彼との関係が悪くなっていくのを感じた。
ある日、彼と話会い自分で起業することにした。

起業

すぐさま自分は起業に動いていた。海外のサービスで自分のバックグラウンドである通販の領域で探していた。今度は自分で投資家を探して、ピッチをしないといけない。一抹の不安はあった。
今まで、誰かに頼って仕事をしてきた自分にとって、自分が主導で全責任を負って物事を進めることに先の見えない不安があった。
「不安は自分で解決するしかない」
ソーシャルコマースというサービスのカテゴリーに着目した。当時は中国でSNSとコマースを組み合わせたサービスが勃興していた。通販の立ち上げのバックグラウンドがあった自分は、ソーシャルコマース領域でサービスをやることを考えていた。
海外のサービスをベンチマークしながら、自分のサービスに関する資料をまとめていた。投資家にピッチするためだ。それと同時に、投資家へのアポイントも取り始めていた。
「来週の火曜でここのオフィスに来てください」
そう言われ、オフィスに向かった。
渋谷の大きなビルの広いラウンジに呼ばれた。サイバーエージェントだった。広いラウンジに呼ばれて、ピッチをした。
「片岡と言います。では、資料の話聞いていいですか?」
6分ぐらいを使って自分がやろうとしているビジネスに関して話した。当時は、何もサービスを検証していない段階なので、海外のサービスの話や自分の経歴とサービスのコンセプトに関して話すしかなかった。探り探り話し、手応えはなかった。
「いいですね。自分、ソーシャルコマース領域は日本で可能性があると思っているんです。」
と片岡さんはそう言った。
「次のフローがあるんでそれに来てください。投資できるまでに3回くらい面接があります。最後は投資家5人ぐらいの前で話してもらいます」
「3回もあるって。前回は、投資が1回の面談で決まったのに対し、こっちは3回もあるのか。」
すぐ2回目の面談を調整して、次の週には面談していた。
「いいんじゃない。でも、ここに懸念があるからもっと詳細に固めてほしい」
この時も手応えはなかった。だが、その日のうちに良い報告が来た。
「月末に最終面接に来てください。前回も言った通り5,6人の前でピッチしてもらいます。」
「ありがとうございます。最終ってどのくらい投資されるのですか?」
「実際に投資されるのは月1件ほどです。投資実行は最終でも数%もない認識です。」
絶望を感じた。最終まで行ったらほぼ確定なんだと思っていた自分がいた。ただただ、乗り越えるしかない状況だった。
すぐに月末が来た。発行される来館証を持ってビルのエレベーターを登った。16階にはCyberAgentとデカデカと書かれ会議室が並んでいた。これが大企業か。今までスタートアップしか経験していない自分にとって、オフィスの規模は非常に印象に残るものだった。
「あ、神崎さん。少しここで待ってください。」
待合いのソファで待っているそばのオフィスでは、アベマTVのなにかか、芸能人と社員が会議をしている。
「神崎さん、こちら入ってください。」
そう言われて入った先は、7人が席に座っていた。
「よろしくお願いいたします」
「じゃあ、ピッチ初めてもらいましょうか」
そう言われて、始めたピッチはあっという間だった。つたない資料で拙いピッチだったかもしれないが、精一杯やった。
「じゃあ、質疑応答に行きましょう」
「どうですか、みなさん」
何件か質問が来た記憶があるが、特に否定されるような質問はなかった。
「じゃあ、他になければ終わりましょうか」
「片岡さん、どうだったんですか?」
そうすぐにメッセージを送った記憶がある。毎度不安になれば彼に確認をしていた。
「投資の契約の調整しましょう!」
「よっしゃ!」
そこからは、今まで敵のようだった投資家が味方のように感じた。それと同時に、1ヶ月前に動き出した起業が自分の行動で本当に会社ができるなんて思ってもいなかった。
2019年9月、自分の会社の登記をした。それと同時に投資を受けた。
「えーっとオフィスはどうしようかな」
「片岡さん、オフィスどうしたらいいですかね?」
「無料のラウンジを開いているところがあるのでまずはそこでどうですか?」
「あと、たまに会議でうちに来る時はラウンジは使ってもいいですよ」
そこから週7でヤフーとサイバーのフリースペースに通う日が始まった。
「まず、エンジニアが必要だなぁ」
ちょうどその頃、知り合いの経営者からフリーランスのマッチングサービスの話を聞いていた。
当時は、フリーランスでサービスを組み立てるプロセスを進める方法すら分かっていなかったが、挑戦してみようと思った。
すぐに5人ぐらいがサービスの開発に参加してくれた。
何もない自分に薄給で協力してくれる人がいるなんて思いもよらなかった。
「集まっていただきありがとうございます。これから日本を変えるソーシャルコマースを開発しようと考えています。」
そう、意気込んだのは渋谷のカフェだった。6人集まってパソコン開いて会議している様子は少し場違いだがおしゃれなカフェだった。
「では、この方向で開発するとして、誰が主導します」
「全員週2ほどの稼働ですもんね。誰がしましょうか」
フリーランスの人たちは、稼働がそれぞれ少なくバラバラで、進みが遅くなってしまう。当たり前のことだが、普通の会社で進むようなスムーズなプロジェクト推進は難しい。
集まってくださった方々に感謝しつつも、
「これは難しいな。」
2週間経ってもほぼ何も進んでいない状況に焦りを感じた。
「どうしようかな。採用媒体に掲載するとお金がかかるし、なるべくお金かけずに人を集めたいな」
「大学の友達とかは、起業するという趣向じゃないし、千葉から東京に来てもらうのは遠いから不確定要素が強いし」
「無料期間を使って採用媒体を使おうか」
そう言って眺めていたWantedly。このサービスを色々触っている中で、データベース検索があった。そこには、いろいろな条件で絞り込めて登録している何万人もの人を見られるものであったが、無料でのため、肝心の名前とSNSへの動線はロックされていた。ただ、よく見てみるとデータベースの画像アドレスがプロフィールのURLに乱数を足したものになっていることに気づいた。
/profile/128447392/avatar/139421
「このavatar以降のURLを削れば、本人のプロフィールが見られるんじゃないか。」
削ってみると、本人のプロフィールアドレスに行けた。そこからSNSの導線もあった。SNSに遷移してサービスの開発で一緒に仕事しないかDMしてみる。
10月すぐに、あるエンジニアが興味あると連絡が来た。
明るい印象はあったが、どこか暗い何かを抱えているような人だった。
「独歩です。名前がとても特徴的ですが。過去にビジネスコンテストなどにも出たことあって、今はエンジニアを3年ほどやってます。」
「今就活をしているんだけど、0からサービスをつくることに興味があって一緒にやってみたい。」
じゃあ、今週末ヤフーのラウンジで話そう。
他の副業の方にも、フルタイムで開発してくれるエンジニアがジョインしたことを伝えて、彼が開発の指揮をとることになった。
ヤフーのラウンジでデータベースの設計からまずは話した。
特に商品の管理の設計のところが複雑だった。その日は日が暮れるまでサービスの開発に関して話し合った。
開発のキックオフみたいな感じだった。
それからというものの、自分は事業周りの全てを管轄しながら開発の要件定義を、独歩はコード書いてサービスを形にしていくという日々が行われた。
何度も深夜まで作業していた。
10月末のハロウィーンはサイバーエージェントで会議があったため、ラウンジで独歩と仕事をしていた。終電ギリギリまで仕事をして、渋谷のハロウィーンの混雑を避けながら走って帰った。
サービスや思いに共感してくれる仲間が集まり、遅くまで仕事をするそのような日々を過ごすことが嬉しかった。
これからサービスを大きくするぞっという希望しかない中での毎日だった。お客さんのために何がいいかサービスのために何ができるかを同じ視線で話合えるメンバーがいて、とても幸せなことだと感じた。


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